3月1日に公開となり、話題になっていた映画「明日への遺言」が、近くの映画館では今日が最終上映となるので、朝食を早めに済ませて見に行った。つくばエクスプレスたが開通してできた柏の葉キャンパス駅前の、「ららぽーと柏の葉」内にあるMOVIXというシネプレックスである。
太平洋戦争の末期には、米国海軍はサイパン、グアム、テニアンなどを占領し、日本本土は米軍の制空圏に入った。そして、東京を始めほとんどの都市への無差別爆撃が行われた。それに対して、日本軍は最後のあがきとも云われるような抵抗を試みていた。映画「明日への遺言」は昭和20年5月の名古屋北部への無差別爆撃の最中、日本軍が撃墜したB29から、パラシュートを使って脱出し、日本軍の捕虜となった乗員27名を、斬首刑にしたことで、戦後、B級戦犯として起訴され、軍事裁判にかけられた、岡田資(たすく)陸軍中将の法廷記録映画である。
この映画に登場するシーンはほとんどが、法廷の中と拘置所内である。しかし、上映時間2時間はしっかりと中身が詰まっており、一寸たりとも気を抜ける部分が無いほど充実した内容であった。被告と弁護人、検察官、裁判員の緊迫した審問と堂々たる弁駁(べんばく)は見応えのあるシーンになっていた。
岡田中将は被告人として法廷に臨むにあたって、この裁判を「法争」と位置づけ、戦争には負けたけれども、この裁判では勝ってみせると決意していた。米海軍の行ったB29による無差別爆撃と戦闘機による機銃掃射は、民間人まで殺戮対象とした、国際法違反であることを認めさせようとしたのである。
そして、捕虜を殺戮したのは報復ではなく、国際法に則った処刑であるとし、全責任は東海軍管区司令官として判決を下した自分にあり、刑を執行した部下たちは、その命令に従っただけである。自分はこの裁判でどんな判決を受けても構わないが、部下に対しては刑を軽くしてもらいたいと、嘆願するのであった。
最後には、岡田中将は「市ヶ谷のA級戦犯をはじめ、他のB、C級戦犯の裁判においては、自分たちのように充分に発言する機会は与えられなかった。この点における寛大な処置を感謝したい」と申し述べ、敵味方の差別無く弁護人として弁護に最大の努力をつくすフェザーストン法学博士や検察官として罪を問いただしながら、少しずつ岡田中将に傾いていったバーネット検事、それに真摯に意見を聞いてくれた裁判員たちに感謝の礼を捧げている。
1948年5月に判決が下され、岡田中将は絞首刑を言い渡された。19名の部下に対しては、終身刑から、最も軽いもので10年の懲役を宣告された。後に部下たちの刑は大幅に減刑されている。
この映画で感銘を受けるのは、岡田中将の堂々たる弁駁と、自分に全責任があるとして、部下をかばう軍人らしい態度、フェザーストン博士の献身的な弁護やバーネット検事の同情、裁判員の公平で真摯な態度、それに岡田中将の家族たちの思いやりのある表情である。
この裁判に比べて、東京裁判での公平性の欠如や、東条英機をはじめとしたA級戦犯たちの卑屈さは、それが国民を戦争に駆り立てた責任者の態度かと情けなく思えてならない。潔く刑に従うことをよしとするのは当たり前である。インドのパール判事のように「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」に対して、何故、堂々と論駁しなかったのかと思う。
とくに意識して観たわけではないが、私は最近、大東亜戦争、太平洋戦争に関わる映画やテレビを観ている。2月末に、「母べえ」、3月10日にTBS「シリーズ激動の昭和 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」、3月17、18日に日本テレビ「東京大空襲」を観た。米軍による日本本土空襲は昭和19年11月に開始されているが、当初はヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によるもので、軍需工場や製油所に対するピンポイント爆撃である。ハンセル准将は無差別爆撃は民間人まで殺戮する非人道的なものであると考えていた。それを手ぬるいとしてハンセルは罷免され、翌年1月に交代したカーチス・E・ルメイ少将は、家屋や鉄道、道路などすべてを焼き尽くす低空飛行で投下する焼夷弾による無差別爆撃を立案し、その最初の候補地として東京の下町が選ばれた。最も被害の大きかったのが昭和20年3月10日の東京大空襲である。死亡者の数は10万人を超えている。二度の爆撃を行っているが、最初の爆撃で避難するであろうという地帯を作って、さらに二度目の爆撃でそこを爆撃している。明らかに大量殺戮を狙った攻撃である。いろんな種類の焼夷弾を使っているが、後にヴェトナム戦争で問題となったクラスター爆弾まで使っている。死亡者の多くが黒焦げになって誰かもわからない死体になり、行方不明者の数が数万人規模まで達しているのがそれを物語っている。広島、長崎の原爆投下による死者は立派な慰霊碑が建てられているが、東京大空襲による死者に対しては、慰霊碑すら建てられていない。これは戦後、米国に対しての批判と取られてはいけないという為政者の卑屈さから来ている。それどころか、大量殺人を犯したカーチス・E・ルメイに対して佐藤栄作内閣は勲一等旭日大綬章まで贈っている。理由は「日本の航空自衛隊を育てた」ということらしい。
戦後まもなく教育を受けた私の年代はフランクリン・ルーズベルト大統領を、ニューディール政策による世界恐慌からの建て直しや、国際連合の設立基盤の構築などを行った偉大な大統領と教わったが、彼こそ、日本を太平洋戦争に駆り立て、日系米国人の強制収容、有色人種、とくに日本人への敵対的差別の第一人者で、親中、親ソの容共主義者であったことを忘れてはならない。ルーズベルトは1945年4月に急死し、副大統領であった凡庸な政治家と云われるトルーマンが大統領に就任するが、もし、ルーズベルトが終戦時に生きていたら、日本はどうなっていたかわからない。ポツダム宣言はトルーマンのもとで、ソ連抜きで書かれている。
映画「明日への遺言」の中で無差別爆撃は国際法違反であるとする岡田中将に対して、バーネット検事は、「処罰された捕虜たちも命令に従って爆撃したのであり、それを命令した者は裁かれるべきだというのか。それが誰だと思うか?」と問いただしている。それに対して、「それを指摘するのは検察側の仕事だ」と答えながら、法廷にかざってあるルーズベルト大統領の写真を見るシーンがある。
1951年のサンフランシスコ講和条約で日米の戦争状態の終結が宣言され、東京裁判でパール判事が指摘した、「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」も、東京大空襲や原爆による広島、長崎への無差別爆撃に対しても、その過誤を問わないことになっている。この条約によって、『歴史』という学問の持つ非合理性、すなわち勝者が常に善であり、敗者が悪であるというぬきさしならぬ不自由さが承認されたのである。
国と国の善悪だけでなく、映画「母べえ」に登場する治安維持法をたてに、ただ戦争に反対するようなことを言ったり、書いたりした人々を投獄した憲兵や特高警察官の罪もすべてチャラになったのだろうか。そういう人たちが戦後になって何もしなかったかのごとくぬくぬくと生きてきたのかと思うと、たまらなく不快感をおぼえてならない。
それとともに、戦前の日本人がやったことをすべて悪として、「南京大虐殺」とか「慰安婦問題」を持ち出して、過剰なまでも自虐的に問題視して正義の味方と云わんばかりに悦ぶ「朝日新聞」のような新聞社の存在も日本国民として、許しがたく思う。
今年の2月に行われた内閣府調査「社会意識に関する世論調査」によると国を愛する気持ちが「強い」と答えた人が57.0%で調査開始以来、過去最高となったと云う。また、社会への貢献意識を「思っている」人も過去最高の69.2%、「個人の利益より国民全体の利益を大切にすべきだ」が51.7%で昨年より4.3ポイント増になっている。これは良い意味での素朴なナショナリズムが向上した証左だと思う。郷土愛などと同じに素直に考え、喜ばしいことである。ナショナリズムのない民族は、いかに文明や経済能力が高くても他民族から軽侮され、“あほう”あつかいにされる。いまや、韓国や中国からいわれのない報復を受けていると見たほうが良い。
きしくも、この文章を書いている4月28日は1952年にサンフランシスコ講和条約が公布された日である。米国によって占領された日本の主権が回復された日である。韓国、中国は未だに、日本の主権を侵して、竹島や尖閣列島の領有権を獲得しようとしている。こういう問題に対して、政府は何事も云えないでいる。
「明日への遺言」は「戦争という歴史は決して忘れてはならないことだが、戦争に負けたからといって決して卑屈になったり自虐的になったりして欲しくない。日本人としての誇りを持って、堂々と主張すべきことは主張せよ。経済的にも文化的にも成熟した国民なのだから。」ということを言っているのだと思う。
毎朝、ウォーキングをしていると季節の変化に敏感になる。今年のソメイヨシノは木によって、開花の時期や花の咲き具合がバラバラになった。寒暖の差が大きくて、暖かい日に一斉に咲いた木と、少し遅く開花した木でずいぶん差があった。ウォーキングコースで毎年、最も開花が早いのが、根戸小学校の南西の角に植わっている大きな木であるが、今年は3月26日に開花した。開花の目安とされる、5~6輪くらいが朝咲いていた。ところがその日が4月の下旬くらいの暖かさで、夜は暖かい雨まで降って、翌日は3歩以上の開花になり、他の木も一斉に花が咲き始めた。
桜の時期になると、なんとなくそわそわする。どこかに花見に行かなければと思うのである。今年は3月31日は朝から雨で、4月1日は風が強かった。雨が降ると花が色あせたりするのではないか、風が強いと花が散るのではないかと、落ち着かない。4月は入学式や会社の年度始めだったりで、花のせいだけではなく、年度代わりという生活の変化も影響するようだ。
「古今集」53 『世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』 在原業平
花が咲く時期は短いが、場所を変えると、結構長い期間、花見をすることができる。去年は家のリフォームで行けなかったが、一昨年は3月の初めに河津ざくらを見に伊豆へ行った。最近は河津だけでなく、伊東あたりでも、河津ざくらを見ることができる。日本列島の南からだんだんソメイヨシノが咲き始め、桜前線は北上していく。4月になると関東あたりが満開になるが、今年は一週間ほど早く、4月1日頃に満開になった。関東の方が九州より早く咲いた。
一昨年は、福島の磐城湯本温泉に行って、勿来の関の桜を見に行った。4月の中旬で満開の桜を見ることができた。さらに遅く4月下旬になって、手賀沼湖畔の水辺の桜が満開になっている。4月はどこかで花見をすることができる。とくに、あわてることはない。
今年はウォーキングをしながらの花見を楽しんだ。柏の利根川沿いにある曙山公園には2回行った。風車前の広い花壇はパンジーがチューリップの芽の間に咲いていて、チューリップとは違うおもむきがあった。昼間は花見客で賑わう曙山公園も静かで、誰もいない桜の写真やビデオも撮影した。
4月6日は風が強く、桜の花が散って、花吹雪になっていた。そろそろ桜の花も終わりになるかも知れない。7日、8日の長雨で花もすっかり散ってしまったと思う。
「古今集」113 『花の色は うつりにけりないたつらに わか身よにふる なかめせしまに』 小野小町
桜の花は日本の国花になっている。アジアの他の国でも咲くが、種類は日本が圧倒的に多いという。日本の春の象徴的な存在で、春を待つ気持ちと桜の開花を重ね合わせて考えるようだ。また、紅葉狩りと同じく、桜狩という言葉があり、いろんな地を訪ねて花を楽しむことを云う。
桜の花はすぐに散ってしまう。散り際の潔さは日本人の美感に合うようだ。「忠臣蔵」で浅野内匠頭が切腹するのも、桜の花が散る時期でなければならない。軍歌でも「「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」とくる。その結果、靖国神社の桜の梢に咲く花になる。さらに、もっと過激な散り方として、戦争末期に開発された「桜花」という特攻兵器があったことだ。これは、戦闘機に魚雷のように装着したエンジンを持つミニ飛行機で、敵の軍艦に向かって搭乗員が誘導しながら攻撃するという代物である。実用化される前に終戦となった。
桜の花が嫌いだという人もいる。花の命は短くて、はかないからだと云う。ずいぶんロマンティックな人だと思う。確かに、そんな気にもなることがある。
「古今集」84 『久方の 光のとけき 春の日に しつ心なく はなの散るらん』 紀友則
戦後の日本占領統治政策のために書かれたルース・ベネディクト著「菊と刀」で、日本人の心理構造を「精神主義」と「集団依存体質」としているが、これは、むしろ「桜」に例えた方が良かったのかもしれない。一斉に咲いて、一斉に潔く散ることを美的に感じる精神構造は日本人特有のものであろう。
難しいことは別にして、桜の花は日本人にとって、昔から異常なまでに愛されている花である。
「山家集」 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』 西行