北欧の凍てつくような寒い夜空を見ていると、静かな中に、冴え渡るように澄み切ったバイオリンの音が聴こえてきた。」と表現したいような、諏訪内晶子のとてつもなくすばらしい演奏を聴くことができた。
今年のNHK音楽祭は12月8日に最後の演奏会が開かれた。毎年、テーマを決めて、そのテーマに合った演奏が行われる。今年は「魅惑のバイオリン、魂のコンチェルト」というテーマで20代から30代のバイオリニストに焦点を当て、バイオリン協奏曲を中心に演奏会が催された。
私はこの最後の演奏会を聴いた。シベリウス作曲の「フィンランディア」と「バイオリン協奏曲ニ短調」、「交響曲第2番ニ長調」という、シベリウスの曲としては最も有名な曲ばかりである。
オーケストラはロンドンの名門、フィルハーモニア管弦楽団、指揮はウラディーミル・アシュケナージ、それにバイオリンソロが今や日本を代表するバイオリニストとなった諏訪内晶子である。
解説の奥田佳道氏によると、12月8日はシベリウスの誕生日だそうで、演奏会にこの日を選んだのは、そのためのようである。昨年はシベリウスの没後50年で多くのCDが発売された。今回の指揮者である、ウラディーミル・アシュケナージの新しいシベリウス交響曲全集も発売されている。
最初の曲「フィンランディア」は1900年に帝政ロシアからの独立を願って作曲された交響詩で、その歌はフィンランドでは第二国家として愛唱されているという。ちなみに、フィンランドの独立記念日は12月6日である。
「フィンランディア」はクラシックファンなら誰でも知っている曲で、演奏会の最初に持って来るのに丁度良い10分足らずの曲である。オーケストラが演奏会場の音響をチェックするのには適度な曲だ。空席の会場でリハーサルをやってはいるが、満席になったら、音の響きがまるで違うからである。聴衆の立場からも最初はまず、会場の響に慣れることが必要になる。そういう意味でこの「フィンランディア」が名演奏とは言いがたかったのも仕方がない。このNHKホールに慣れているはずのアシュケナージが指揮してもオーケストラメンバーにとってはやはり演奏しずらかったと思う。
今回のNHK音楽祭で最も聴きたかったのが、「バイオリン協奏曲ニ短調」である。とくに諏訪内晶子のバイオリンをこの曲を得意とする名門オーケストラと名指揮者をバックにして聴けるという願っても無いチャンスに恵まれたと云える。
この協奏曲はバイオリンソロが多く、独奏者の個性が遺憾無く発揮される曲である。
イントロ部分の弱高音はCDではなかなか聴き取りにくい部分だが、諏訪内の演奏はストレートに私の耳に飛び込んで来た。なんという緊迫感なのだろうと思った。オーケストラも彼女の集中力に釣られる様に引き締まった演奏になった。先ほどの「フィンランディア」の演奏とはまるで違う。第二楽章でのバイオリンの美しい高音、まさにストラデバリウス「ドルフィン」を駆使しての名演奏である。北欧の陰鬱な情景を表わす第二楽章から、一転して第三楽章のリズミカルで燃え盛るような音楽と続く。諏訪内のテクニックと内に秘めた情熱が充分に発揮された演奏である。
この演奏の間、私はすべてを聞き漏らすことの無いほどの緊張感をもって、心地よく酔いしれてしまった。終ったときにふっと、ため息が出てつぶやいた「すばらしい!!」の一言。
指揮者のアシュケナージが諏訪内に対して、御見逸れしましたと言わんばかりに御辞儀をし、握手を求めたのも印象的だった。
アンコール曲として諏訪内が演奏したバッハ「無伴奏バイオリンソナタ第三番のラルゴ」も彼女が得意とする曲らしく、素敵な演奏であった。ここでは最近のスタイルのヴィブラートを押さえ気味にした演奏で耳に心地よい響きである。
従来、このNHKホールの音響の悪さには定評があって、海外から来たオーケストラは随分戸惑うようだが、今回は前から10番目、左寄りのSS席でバイオリン協奏曲を聴くには最適の席だった。もちろんそれを狙って予約した席である。下手にホールが響いてくれるより、バイオリンの響がストレートに耳に入って来て、クリアーに聴こえる。
最後の「交響曲第二番ニ長調」はバイオリン協奏曲で演奏したオーケストラが大編成になり、緊迫感も引き継がれて、引き締まったすばらしい演奏であった。アシュケナージとしては彼の得意とするシベリウスで、彼の本領を発揮した演奏といえよう。
諏訪内晶子は1990年に「チャイコフスキー国際コンクール」で、日本人としては初めて優勝している。しかも、史上最年少であった。彼女の父君が私と同じ会社に勤務されており、この優勝の報をテレビで聞いたとき、一緒にいた同僚と喜び合った思い出もある。今現在、私は彼女の大ファンで、ほとんどのCDを持っている。シベリウスの「バイオリン協奏曲」も2002年録音でオラモ指揮バーミンガム市響と組んで演奏したSACDを聴いているが、今回の演奏は生演奏であることだけでなく、円熟した彼女の実力を充分に出しきった、音楽そのものの質としてもそれをはるかに凌駕したものであった。
11月14日に日展を見に行った。国立新美術館ではピカソ展もやっていたが、そこには入らず、日展の作品鑑賞と写真撮影に専念した。今年は昨年より多くの作品の写真を撮ろうと思って、美しく感じた絵や工芸、彫刻を片っ端からデジカメに収めた。昨年はフェルメール展と同時に開催されていたが、多分、今年のピカソ展も混んでいたのかもしれない。日展はそれほど混んでいることもなく、写真もゆっくりと撮れた。
今年の入選作品でも、毎年出品し入選する方々が多いのか、傾向はよく似ている。洋画では相変わらず衣服やシーツなど質感が緻密に描かれている。一目見ただけで、去年のあの作品を描かれた画家の作品かとすぐに気が付くものも多い。それが、日本画の中でも見ることができる。上掲のスライドショーで羊の絵があるが、これは日本画である。日本画は一般的に緻密な描き方をしないが、直接触ってみたくなるほど、羊毛の質感を表現してしている。
多いのは、ソファやベッドに横たわった女性、舞妓さん、克明に描かれた静物や風景などである。とくに目立ったのが絵の中に楽器類が描かれていることである。音楽ファンの私にとっては喜ばしいかぎりだ。
結局、200枚以上の写真を撮影した。
私は趣味として写真撮影やビデオ撮影をやっているのだが、風景を撮影するときでさえ、実物をカメラのファインダーを通してしか見ていないのではないかと不安を覚えることがある。直に自分の目で見るためにカメラは持って行かない方が良いのではないかと思うことさえある。今回感じたのはやはり、撮影しようと思って、真剣に探すことによって、作品の印象はより強く残るのだということである。ただ漫然と見て廻ると作品の良さは後まで残っていない。
普通は美術館での撮影は禁止されていることが多い。しかし、それは他の美術館から借りてきたものを集めた「・・・展」的なものであって、その美術館の常設作品はカメラ撮影が許可されているのが一般的である。ストロボを焚いたり、シャッター音の大きいカメラで撮影するのを避ければ、どんどん、撮影しても良いように思う。
昨年から日展は国立新美術館で開かれているが、今年は洋画と日本画の展示区画が明確になって、わかりやすくなった。洋画と日本画の区別が作品そのものではわかりにくい現状では親切な配慮だと思う。
東京都美術館で開催されていた頃は、照明も暗く、狭苦しく、しかも上下に展示されていた作品が多かったため、ゆっくりと見て、写真に撮るなどとは考えもしなかったが、昨年から、日展で写真を撮るという楽しみができた。
現在の車に買い替えてはや3年になる。7月21日が車検切れになるが、その前の一ヶ月間に車検をうけなければならない。これまでは車のディーラーかガソリンスタンドに持って行って、車検を受けていたので、6月頃から郵便受けに入っているチラシを集めたり、ディーラーに聞いたりして、料金を見積もってみた。ガソリンスタンドと云っても、実際は車検屋の取次ぎをやるだけのところが多い。車検屋だと、約7万円プラスαで、ディーラーだと10万は越しそうだ。
今回は車を買ってまだ3年しか経っていないし、そんなに多くの距離を走ってもいない。3年前に前の車を売ったとき、業者経由だと事務処理手数料がやたらと高いことがわかっていたので、今回は自分自身で車検センターに車を持ち込み自分で車検を受ける、いわゆるユーザー車検にすることにした。
ユーザー車検だと検査費用は1700円で、あと、自賠責保険、自動車重量税を入れて小型車だと49370円だけで済む。おまけに、車を預ける必要も無く、1時間程度で済んでしまう。といっても、車検屋やディーラーは24ヶ月点検をやってくれるが、それは自分でやらなければならない。24ヶ月点検だけどこかに頼むというのは難しそうだ。
私の場合、運悪く、6月下旬にバドミントン大会で腰を痛めてしまい、ホイールを外してブレーキの点検もままならない。結局24ヶ月点検は車検後に自分でやることにして、野田の車検センターに行き、何のトラブルも無く一発で合格した。
いつも乗っている車である。本来は日常点検が義務付けられている。エンジンオイルの点検やタイヤの空気圧、バッテリー液などは常日頃、チェックしておくべきものだが、買ったばかりの車だと、なんとなく疎かになってしまう。
年に一度くらい、ディーラーで格安でオイル交換や点検を一緒にやってくれるので、それに頼ってしまっていた。
以前からユーザー車検という手段は知っていたが、なんとなく面倒で、自分でやるのは初めてだ。
まずは車検というものがどういうものか、インターネットでいろんなサイトを調べてみた。「ユーザー車検」で検索するとたくさんのサイトがあって、事細かく丁寧に書いてある。費用の見積もり、必要書類、事務手続きの書式やそのやり方は勿論、実際の車検ラインの流れや検査を受けるときの要領も綿密に知ることができる。
細かいことはそのようなサイトに譲るとして、重要なことは以下の事項である。
◇ 事前に車検センターに行って、必要書類を入手するとともに、車検ラインを見学しておく。
◇ 必要書類はすべて記入しておく。自賠責保険も更新しておく。
◇ 自動車検査インターネットシステムで予約する。できるだけ、早い時間を予約する。雨が降りそうな日は避ける。
◇ 車検前日に日常点検をすませ、ホイールキャップの外し方にも慣れておく。
◇ 車検ラインでは前の車の様子をよく見ておく。窓は検査員の言う事が良く聞こえるように開けておく。
◇ 電光掲示板の指示に従って車を操作する。
あとは度胸だけ。多少失敗しても、やり直せばよい。当日なら、何度でも検査を受けることができるし、不合格になった検査だけやり直すこともできる。修理して別の日に受けても検査料1700円を払えばよい。
車検センターに行って気が付いたことは、ユーザー車検を初めて受けるという感じの人をあまり見かけないことである。知人に聞いても、自分で車検センターに持って行って車検を受けるというのは聞いたことがない。
車検ラインに並んでいる車を運転している人はプロのような人ばかりである。みんな、バインダーに書類をはさんでいる。ユーザー車検の窓口にバインダーを持って並んでいるプロらしい人に、バインダーが必要かと聞いたら、「関係ないよ」と言っていた。
平成7年に「道路運送車両法」が改正されて、それまで、「車検を受ける前に24ヶ月点検整備をやっておかねばならない」ということから、「点検整備は車検後に実施してもよい」ということに変って、車検はユーザー自身で受けられそうだと随分話題になった。ガソリンスタンドやタイヤ屋さん等でも「ユーザー車検代行」という看板を見ることが多くなった。車の所有者の代わりに別の人が受けても構わない。例えば、私が友人の車の車検を受けても構わないのだ。
では、なぜユーザー車検を受ける人が少ないのだろうかと、自分の過去を振り返って考えてみた。
まず、点検整備を車検の前にやらねばならないし、点検整備には分解整備が必要だと勘違いしている人が多いということだ。分解整備をやるためには国の認証が必要であるが、24ヶ月点検には分解整備は必要ない。
もう一つは車検を業者に頼んでも、プラス2万円程度で24ヶ月点検もやってくれるので、それほど高くはない。ただ、よく検討して、業者を選ぶ必要がある。私も安いところに頼んで、純正オイルではなく、安いミッションオイルに入れ替えられて、ギヤの入りが悪くなったこともある。次の車検ではディーラーに頼んで12万円以上も取られた。しかも、一週間も車を使えず、預けた時や、次に引き取りに行くのに送迎さえなかった。
ユーザー車検が少ないもう一つの理由は車検の時期になると、ディーラーから担当営業さんが来るので、ついその口車に乗ってしまう。ユーザー車検を受けたいとでも云おうものなら、まずは素人では無理だと言われるだろう。脅かされると、なんとなく怖くなって、無難なところに頼んでしまう。
ユーザー車検を自分で体験して感じたことは、それが実に簡単で、何でもない事だったことだ。まさに「試しにやってみたら」の典型的な例である。検査員だって素人っぽい人には親切である。
何と言っても良いのは自分の車を自分で点検し、自分で検査を受けると、車に対する愛着が大きくなり、車を大事に運転するようになることである。ちょうど初めて車を持ったときと同じような感じになる。
この文章を書き終えたのが、9月末になってしまった。忙しかったことと、腰を痛めてしばらく怖かったので24ヶ月点検を9月にやったからである。ついでにタイヤのローテイションもやった。24ヶ月点検を自分でやってみるとさらに車が自分の所有物であることが実感でき愛着感もさらに増える。エンジンオイルとブレーキフルードもカー用品店で交換してもらった。車を長持ちさせ、省燃費のためにはエンジンオイルも良いものを使うべきだ。今回は化学合成油100%のオイルを使い、エレメント交換、フラッシングもやってもらった。多少高くついたが、エンジン音が低下し、乗り心地もよくなった。
3月1日に公開となり、話題になっていた映画「明日への遺言」が、近くの映画館では今日が最終上映となるので、朝食を早めに済ませて見に行った。つくばエクスプレスたが開通してできた柏の葉キャンパス駅前の、「ららぽーと柏の葉」内にあるMOVIXというシネプレックスである。
太平洋戦争の末期には、米国海軍はサイパン、グアム、テニアンなどを占領し、日本本土は米軍の制空圏に入った。そして、東京を始めほとんどの都市への無差別爆撃が行われた。それに対して、日本軍は最後のあがきとも云われるような抵抗を試みていた。映画「明日への遺言」は昭和20年5月の名古屋北部への無差別爆撃の最中、日本軍が撃墜したB29から、パラシュートを使って脱出し、日本軍の捕虜となった乗員27名を、斬首刑にしたことで、戦後、B級戦犯として起訴され、軍事裁判にかけられた、岡田資(たすく)陸軍中将の法廷記録映画である。
この映画に登場するシーンはほとんどが、法廷の中と拘置所内である。しかし、上映時間2時間はしっかりと中身が詰まっており、一寸たりとも気を抜ける部分が無いほど充実した内容であった。被告と弁護人、検察官、裁判員の緊迫した審問と堂々たる弁駁(べんばく)は見応えのあるシーンになっていた。
岡田中将は被告人として法廷に臨むにあたって、この裁判を「法争」と位置づけ、戦争には負けたけれども、この裁判では勝ってみせると決意していた。米海軍の行ったB29による無差別爆撃と戦闘機による機銃掃射は、民間人まで殺戮対象とした、国際法違反であることを認めさせようとしたのである。
そして、捕虜を殺戮したのは報復ではなく、国際法に則った処刑であるとし、全責任は東海軍管区司令官として判決を下した自分にあり、刑を執行した部下たちは、その命令に従っただけである。自分はこの裁判でどんな判決を受けても構わないが、部下に対しては刑を軽くしてもらいたいと、嘆願するのであった。
最後には、岡田中将は「市ヶ谷のA級戦犯をはじめ、他のB、C級戦犯の裁判においては、自分たちのように充分に発言する機会は与えられなかった。この点における寛大な処置を感謝したい」と申し述べ、敵味方の差別無く弁護人として弁護に最大の努力をつくすフェザーストン法学博士や検察官として罪を問いただしながら、少しずつ岡田中将に傾いていったバーネット検事、それに真摯に意見を聞いてくれた裁判員たちに感謝の礼を捧げている。
1948年5月に判決が下され、岡田中将は絞首刑を言い渡された。19名の部下に対しては、終身刑から、最も軽いもので10年の懲役を宣告された。後に部下たちの刑は大幅に減刑されている。
この映画で感銘を受けるのは、岡田中将の堂々たる弁駁と、自分に全責任があるとして、部下をかばう軍人らしい態度、フェザーストン博士の献身的な弁護やバーネット検事の同情、裁判員の公平で真摯な態度、それに岡田中将の家族たちの思いやりのある表情である。
この裁判に比べて、東京裁判での公平性の欠如や、東条英機をはじめとしたA級戦犯たちの卑屈さは、それが国民を戦争に駆り立てた責任者の態度かと情けなく思えてならない。潔く刑に従うことをよしとするのは当たり前である。インドのパール判事のように「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」に対して、何故、堂々と論駁しなかったのかと思う。
とくに意識して観たわけではないが、私は最近、大東亜戦争、太平洋戦争に関わる映画やテレビを観ている。2月末に、「母べえ」、3月10日にTBS「シリーズ激動の昭和 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」、3月17、18日に日本テレビ「東京大空襲」を観た。米軍による日本本土空襲は昭和19年11月に開始されているが、当初はヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によるもので、軍需工場や製油所に対するピンポイント爆撃である。ハンセル准将は無差別爆撃は民間人まで殺戮する非人道的なものであると考えていた。それを手ぬるいとしてハンセルは罷免され、翌年1月に交代したカーチス・E・ルメイ少将は、家屋や鉄道、道路などすべてを焼き尽くす低空飛行で投下する焼夷弾による無差別爆撃を立案し、その最初の候補地として東京の下町が選ばれた。最も被害の大きかったのが昭和20年3月10日の東京大空襲である。死亡者の数は10万人を超えている。二度の爆撃を行っているが、最初の爆撃で避難するであろうという地帯を作って、さらに二度目の爆撃でそこを爆撃している。明らかに大量殺戮を狙った攻撃である。いろんな種類の焼夷弾を使っているが、後にヴェトナム戦争で問題となったクラスター爆弾まで使っている。死亡者の多くが黒焦げになって誰かもわからない死体になり、行方不明者の数が数万人規模まで達しているのがそれを物語っている。広島、長崎の原爆投下による死者は立派な慰霊碑が建てられているが、東京大空襲による死者に対しては、慰霊碑すら建てられていない。これは戦後、米国に対しての批判と取られてはいけないという為政者の卑屈さから来ている。それどころか、大量殺人を犯したカーチス・E・ルメイに対して佐藤栄作内閣は勲一等旭日大綬章まで贈っている。理由は「日本の航空自衛隊を育てた」ということらしい。
戦後まもなく教育を受けた私の年代はフランクリン・ルーズベルト大統領を、ニューディール政策による世界恐慌からの建て直しや、国際連合の設立基盤の構築などを行った偉大な大統領と教わったが、彼こそ、日本を太平洋戦争に駆り立て、日系米国人の強制収容、有色人種、とくに日本人への敵対的差別の第一人者で、親中、親ソの容共主義者であったことを忘れてはならない。ルーズベルトは1945年4月に急死し、副大統領であった凡庸な政治家と云われるトルーマンが大統領に就任するが、もし、ルーズベルトが終戦時に生きていたら、日本はどうなっていたかわからない。ポツダム宣言はトルーマンのもとで、ソ連抜きで書かれている。
映画「明日への遺言」の中で無差別爆撃は国際法違反であるとする岡田中将に対して、バーネット検事は、「処罰された捕虜たちも命令に従って爆撃したのであり、それを命令した者は裁かれるべきだというのか。それが誰だと思うか?」と問いただしている。それに対して、「それを指摘するのは検察側の仕事だ」と答えながら、法廷にかざってあるルーズベルト大統領の写真を見るシーンがある。
1951年のサンフランシスコ講和条約で日米の戦争状態の終結が宣言され、東京裁判でパール判事が指摘した、「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」も、東京大空襲や原爆による広島、長崎への無差別爆撃に対しても、その過誤を問わないことになっている。この条約によって、『歴史』という学問の持つ非合理性、すなわち勝者が常に善であり、敗者が悪であるというぬきさしならぬ不自由さが承認されたのである。
国と国の善悪だけでなく、映画「母べえ」に登場する治安維持法をたてに、ただ戦争に反対するようなことを言ったり、書いたりした人々を投獄した憲兵や特高警察官の罪もすべてチャラになったのだろうか。そういう人たちが戦後になって何もしなかったかのごとくぬくぬくと生きてきたのかと思うと、たまらなく不快感をおぼえてならない。
それとともに、戦前の日本人がやったことをすべて悪として、「南京大虐殺」とか「慰安婦問題」を持ち出して、過剰なまでも自虐的に問題視して正義の味方と云わんばかりに悦ぶ「朝日新聞」のような新聞社の存在も日本国民として、許しがたく思う。
今年の2月に行われた内閣府調査「社会意識に関する世論調査」によると国を愛する気持ちが「強い」と答えた人が57.0%で調査開始以来、過去最高となったと云う。また、社会への貢献意識を「思っている」人も過去最高の69.2%、「個人の利益より国民全体の利益を大切にすべきだ」が51.7%で昨年より4.3ポイント増になっている。これは良い意味での素朴なナショナリズムが向上した証左だと思う。郷土愛などと同じに素直に考え、喜ばしいことである。ナショナリズムのない民族は、いかに文明や経済能力が高くても他民族から軽侮され、“あほう”あつかいにされる。いまや、韓国や中国からいわれのない報復を受けていると見たほうが良い。
きしくも、この文章を書いている4月28日は1952年にサンフランシスコ講和条約が公布された日である。米国によって占領された日本の主権が回復された日である。韓国、中国は未だに、日本の主権を侵して、竹島や尖閣列島の領有権を獲得しようとしている。こういう問題に対して、政府は何事も云えないでいる。
「明日への遺言」は「戦争という歴史は決して忘れてはならないことだが、戦争に負けたからといって決して卑屈になったり自虐的になったりして欲しくない。日本人としての誇りを持って、堂々と主張すべきことは主張せよ。経済的にも文化的にも成熟した国民なのだから。」ということを言っているのだと思う。
毎朝、ウォーキングをしていると季節の変化に敏感になる。今年のソメイヨシノは木によって、開花の時期や花の咲き具合がバラバラになった。寒暖の差が大きくて、暖かい日に一斉に咲いた木と、少し遅く開花した木でずいぶん差があった。ウォーキングコースで毎年、最も開花が早いのが、根戸小学校の南西の角に植わっている大きな木であるが、今年は3月26日に開花した。開花の目安とされる、5~6輪くらいが朝咲いていた。ところがその日が4月の下旬くらいの暖かさで、夜は暖かい雨まで降って、翌日は3歩以上の開花になり、他の木も一斉に花が咲き始めた。
桜の時期になると、なんとなくそわそわする。どこかに花見に行かなければと思うのである。今年は3月31日は朝から雨で、4月1日は風が強かった。雨が降ると花が色あせたりするのではないか、風が強いと花が散るのではないかと、落ち着かない。4月は入学式や会社の年度始めだったりで、花のせいだけではなく、年度代わりという生活の変化も影響するようだ。
「古今集」53 『世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』 在原業平
花が咲く時期は短いが、場所を変えると、結構長い期間、花見をすることができる。去年は家のリフォームで行けなかったが、一昨年は3月の初めに河津ざくらを見に伊豆へ行った。最近は河津だけでなく、伊東あたりでも、河津ざくらを見ることができる。日本列島の南からだんだんソメイヨシノが咲き始め、桜前線は北上していく。4月になると関東あたりが満開になるが、今年は一週間ほど早く、4月1日頃に満開になった。関東の方が九州より早く咲いた。
一昨年は、福島の磐城湯本温泉に行って、勿来の関の桜を見に行った。4月の中旬で満開の桜を見ることができた。さらに遅く4月下旬になって、手賀沼湖畔の水辺の桜が満開になっている。4月はどこかで花見をすることができる。とくに、あわてることはない。
今年はウォーキングをしながらの花見を楽しんだ。柏の利根川沿いにある曙山公園には2回行った。風車前の広い花壇はパンジーがチューリップの芽の間に咲いていて、チューリップとは違うおもむきがあった。昼間は花見客で賑わう曙山公園も静かで、誰もいない桜の写真やビデオも撮影した。
4月6日は風が強く、桜の花が散って、花吹雪になっていた。そろそろ桜の花も終わりになるかも知れない。7日、8日の長雨で花もすっかり散ってしまったと思う。
「古今集」113 『花の色は うつりにけりないたつらに わか身よにふる なかめせしまに』 小野小町
桜の花は日本の国花になっている。アジアの他の国でも咲くが、種類は日本が圧倒的に多いという。日本の春の象徴的な存在で、春を待つ気持ちと桜の開花を重ね合わせて考えるようだ。また、紅葉狩りと同じく、桜狩という言葉があり、いろんな地を訪ねて花を楽しむことを云う。
桜の花はすぐに散ってしまう。散り際の潔さは日本人の美感に合うようだ。「忠臣蔵」で浅野内匠頭が切腹するのも、桜の花が散る時期でなければならない。軍歌でも「「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」とくる。その結果、靖国神社の桜の梢に咲く花になる。さらに、もっと過激な散り方として、戦争末期に開発された「桜花」という特攻兵器があったことだ。これは、戦闘機に魚雷のように装着したエンジンを持つミニ飛行機で、敵の軍艦に向かって搭乗員が誘導しながら攻撃するという代物である。実用化される前に終戦となった。
桜の花が嫌いだという人もいる。花の命は短くて、はかないからだと云う。ずいぶんロマンティックな人だと思う。確かに、そんな気にもなることがある。
「古今集」84 『久方の 光のとけき 春の日に しつ心なく はなの散るらん』 紀友則
戦後の日本占領統治政策のために書かれたルース・ベネディクト著「菊と刀」で、日本人の心理構造を「精神主義」と「集団依存体質」としているが、これは、むしろ「桜」に例えた方が良かったのかもしれない。一斉に咲いて、一斉に潔く散ることを美的に感じる精神構造は日本人特有のものであろう。
難しいことは別にして、桜の花は日本人にとって、昔から異常なまでに愛されている花である。
「山家集」 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』 西行
記憶というものは極めて曖昧なものである。具体的な事象やそれに伴って感じたことはよく覚えているが、ただ単に何かに心動かされるような、心情的なことはすぐに忘れてしまう。大学在学中だったと思うが、音楽を聴いて、誰かにそのすばらしかったことを、話さざるを得ないほどの感銘を受けたことがある。
それは、ラジオを通して聴いたレフ・オボーリンのピアノ演奏だった。演奏終了後すぐに、従姉妹に電話をかけて、「いまのオボーリンの演奏、聴いた?」と尋ねた。彼女は武蔵野音大でピアノを専攻していて、オボーリンが来日し、渡辺暁雄指揮、日フィルと共演することをよく知っていた。勿論、彼女もその演奏をラジオで聴いていた。二人でその卓越した演奏について語り合ったことを覚えている。その演奏がどのようにすばらしかったかはまるで覚えていない。演奏の良さを言葉で表すことは、直前に聴いた音楽でさえ難しい。いまから調べると、オボーリンが来日演奏したのが1965年10月22日である。オボーリンが来日した頃には、オイストラフと共演したベートーヴェンの「クロイツェル」と「春」が入ったレコードを持っていた。演奏が優れていたのは勿論だが、昔のラジオとは云えども、実況生放送を聴くのと、編集したレコードで聴くのとはずいぶん違ったと思う。
私が、音楽、とくにクラシックを聴くようになったのは、高校時代である。大学に入ってからは、武蔵野音大でピアノを教えていた叔母や音大生の従姉妹たちの影響で、音楽の話をするのは当たり前のようになっていた。いまでも、その従姉妹たちとは兄弟同様のお付き合いをさせてもらっている。もと東響でオーボエ奏者だった旦那もいて、みんなで集まると、飲みながらの音楽談義になってしまう。
私がステレオ装置らしき、アンプやチューナー、レコードプレーヤーを揃えたのは、現在の家を購入してからで、それ以来、たくさんのレコードも買った。でも、あまり高価な装置は持っていない。音楽は、曲の次は演奏で、次が録音、最後に再生装置と思っている。オーディオの雑誌を見ると、高価な装置は評判が良い、安い装置は入門者向けということになっている。私はそういう意味では、いつも入門者だ。お金もないが、家の中のスペースに制約されて、大きいスピーカーなど置けないのである。
現在、私は2セットのオーディオ装置を使っている。メインの装置はリビングにあり、もう一つが書斎にある。メインの装置は1993年頃から、代々、7.1チャネルシステムだ。マルチチャネルにしたのは、コンサートホールで聴く感覚でクラシックを聴きたかったからで、たまたま、アンプを買い換えたいと思って秋葉原に行って見つけたものである。ヤマハが出していた、DSP-2000という、今で云うAVアンプである。メインスピーカーは従来のプリメインアンプに接続し、センタースピーカーやフロントとリアのエフェクトスピーカー、サブウーハーを加えて、実際のコンサートホールの音場を作り出すという代物である。スピーカーはたくさん要るが、大きいスピーカーは必要ない。そのあと、98年にメインアンプも、スピーカーもほとんどを入れ替え、ヤマハのDSP-A1に替えている。それと同時にスピーカーはフロントをハーベスHL-P3ESに替えた。BBCモニターのLS3/5Aを改良してクラシックを中心とした音楽用にアップグレイドしたものである。このスピーカーは、フロントスピーカーとしてクラシックを聴くには最適であると思う。現在は、ヤマハのDSP-AX4600を使っている。A1に比べると音場の数は少ないが、オーディオ用AVアンプとして設計されたもので、静ひつ感はすばらしい。DVDプレーヤーも同時にユニバーサルプレーヤーに買い換えたが、ほとんどCDプレーヤーとして使っている。
最近はマルチチャネルシステムもオーディオファンから見直されつつあるようだが、数年前まではピュアオーディオファンからはAVアンプでオーディオを聴くのは邪道のように云われた。もちろん、家電量販店なんかで、テレビの前に置いてあるサラウンドシステムはやはり5.1チャネルの映画を見るためのもので、音楽を聴くには不満を感じるかもしれない。しかし、良い音で、音楽を聴くに耐えられるピュアオーディオ用のスピーカーとAVアンプを使えば、大型スピーカーにも負けないシステムになると思う。。マルチチャネルで音楽を聴くメリットは、コンサートホールで音楽を聴いているのと同じ雰囲気を味わえることである。それと床や壁などをあまり気にしなくて済む。もちろん、映画の音声をマルチチャネルで聴くのも楽しみたい。テレビで放送される音楽番組や5.1チャネルで放送される番組をテレビに付いているスピーカーで聴いたのでは、と思ってしまう。
昨年の6月に我孫子市オーディオファンクラブ(AAFC)に入会した。例会ではいろんな音楽を聴かせていただいた。また、自作のスピーカーやアンプなどの音も聴くことができた。うらやましいのは、みなさんが、時間的にも、経済的にもずいぶん余裕をお持ちだということである。
もう一つは奥さんが、オーディオに関して、よく理解してくださっていることである。一般的に女性のオーディオファンは少ない。しかも、長いクラシックを音量を上げて聴くなどとは信じ難い。我家では、自分の部屋ではいつもCDやレコードを聴いているが、リビングルームにあるメインシステムでCDを聴くのは、女房が留守のときだけで、普段はめったに聴かない。また、自作のスピーカーで綺麗でピュアーな音を聴かされると、つい欲しくなる。
書斎のオーディオ装置は確かにオーディオ誌の云う、入門用だが、この前のAAFCのオークションで買ったスピーカースタンドのお陰で、音がよく響くようになり、トーンコントロールも高低音を強くする必要がない。その方が柔らかくて良い音が出る。今でも、「趣味はオーディオではなく、音楽鑑賞である」で良いと思っている。
私は「根戸エンジョイクラブ」に入って、太極拳とペタンクを始めた。ペタンクは日本ではニュースポーツの一種に属するスポーツである。現在、日本のペタンクは、ゲートボールがすたれて、その代わりになるような老人向けスポーツになっている。市のペタンク大会やペタンクの練習は以前のゲートボール場でやっている。2~3人でチームを組んで競技するので、4~6人が集まらないと試合はできない。私達は近くの小学校の校庭や公園で練習しているが、一旦、やりだすと、つい熱中してしまう。
「日本ペタンク協会」のウエブによると、ペタンクは1910年に南フランスの港町ラ・シオタで生まれた球技で、最初は助走をつけて投球していたが、車椅子の人でも競技ができるように、地面に直径50cm程の円を書いてのその中から投げるようになったという。発祥国フランスでは500万人以上がプレーを楽しんでいるそうだ。欧州は勿論、アジアでも旧フランス領であったベトナムやカンボジャ、ラオスでは盛んに行われている。
小さな公園のようなほんの少しのスペースでも気軽にプレーでき、ルールも簡単なことから誰でも容易に参加できる。実際に我々がプレーしているときに、知らない人から、「これは何と云うゲームですか?」と聞かれることがある。我々としては喜んでお応えしているし、興味を示す人には一緒にゲームをやるように勧めている。ゲームに参加するとすぐにルールも理解してもらえる。手っ取りばやく説明するため「氷の上でやるカーリングと同じです」と説明している。簡単なルールや用具を理解するには「日本ペタンク協会」のウエブ他、たくさんのサイトで説明されているので、ご覧いただきたい。
ここでは、簡単に説明しておく。通常、二人1チームで対戦するダブルスと三人1チームで行うトリプルスが普通である。両チームが6個の700グラム程度のボールを投げる。最初にビュットという小さなプラスチックの的(まと)を投げて、その的に、より近いところにボールが止まった方がその回での勝ちになる。6個ずつ投げて、相手の最も近いボールより近いボールが何個あるかで点数が決まる。こうして、点数を足していって、合計13点になった方がゲームの勝者となる。
ボールの投げ方は大きく二通りがある。一つはビュットに近くなるように投げるポワンテで、基本的な投げ方である。もう一つは敵の玉に当てて敵の玉をビュットから遠ざけるティールである。どんなにビュットの近くにボールを投げても、敵にティールでボールを当てられて吹っ飛ばされたら、おわりである。だから、ティールが出来ないと、大きな大会で良い成績は残せない。
ポワンテには3通りの投げ方がある。手元から転がすルーレットとボールを高く投げてビュットのすぐ近くに落とすポルテ、その中間のドゥミポルテがある。一般的な投げ方はドゥミポルテで、地面の状態に合わせて、立って投げたり、しゃがんで投げたりする。
ペタンクの面白いのは個人的な技術も重要だがチームワークも必要だし、さらに、ゲームの展開に伴って誰にどのように投げさせるか、どこでティールをやるか、敵の邪魔になるようにどこにボールを配置するかなどという戦略も重要になる。得意技がメンバーによって異なるので投げる順番も考えねばならない。
私が属している我孫子市ペタンククラブ連絡会では、年に二回のペタンク大会を開催している。いくつかのクラブから数チームが参加し、80名程度で腕を競うわけだが、対戦相手によって成績が左右されるので、最初の組合せの運も影響大である。昨年、我々のクラブの成績は優勝と最下位だった。
上掲ビデオで説明しているTさんから教わったことだが、ペタンクの技術を向上させるために必要な要点を下記に書いて置く。
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親指を使わず4本指を締めてボールをその上に乗せるように持つ。握ってはいけない。
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後ろに腕を振り、前方へ腕を振り子のように振ってボールをリリースする。投げようと思って、投げるのではない。遠くに投げるときは、精一杯腕を後方に振って、振った勢いで、ボールを遠くへ放る。
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ボールをリリースしたあと、手は肩の上程度まで上げる。万歳はしないようにする。
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後ろに腕を振ったとき、4本の指が真後ろに向くようにする。また、脇を締めて、腕は目標に向かって真っ直ぐに振る。横投げはしない。
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バックスピンを意識してボールを投げる必要はない。自然にバックスピンはかかる。ポルテで故意にバックスピンをかけることがあるが、高度な技である。
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身体を上下に動かさないようにしてボールを投げる。コンスタントに同じ所に投げるためである。
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ボールを投げるとき、身体の重心はやや後方に置く。遠く投げるときは、重心をさらに後方に置く。
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ボールを直接、敵のボールに当てる、すなわちティールの練習を心がける。最初は6m程度の距離から練習する。直接当たらなくても、ボールが同じようなところに集中して留まるように練習する。
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ボールを上に揚げて投げる、すなわちポルテの練習もする。個人的にはティールを正確に投げられるようになってからでも良いと思う。
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練習でも、上記のことを入念にチェックし、ボールを投げるときの姿勢やボールの持ち方、リリースの瞬間に気を付ける。
ペタンクは基本的にはチームでやるゲームである。誰でも参加できるし、奥の深いゲームで面白い。しかし、その前に個人個人の技術を向上させることを忘れないようにしなければならない。
そうなると、一人で何度も繰り返しボールを投げて練習するしかない。冬でも30分続けると汗もかく。練習をやりすぎると腱鞘炎にさえなる。決して、老人のスポーツではない。何事もそうなのだが、地味ではあるが、一人こつこつと練習を積み重ねることが大事である。
ルールは http://www.ne.jp/asahi/ikigai/yuyu/04yoka/method/01petanque/04rule/01rule.htm
のサイトが最もわかりやすいので、詳細を知りたい方は参照していただきたい。
添付した新聞記事で、東京の港区の中学校でのペタンク大会について触れているが、この記事の1ヵ月後の2月19日の大会には、我々、根戸エンジョイクラブのチームも参加した。3戦して1勝しかできなかった。その一勝もかろうじて勝った試合だった。リードはしていたものの、最後に、ほとんど逆転されそうなところを私の最後の一投のティールが決まり、勝利できた。いまだにあれは奇跡だと思っている。
このとき、Tさんのチームは準優勝をしている。Tさんのティールやポルテをビデオで見て、参考にして欲しい。
2006年ペタンク世界選手権大会の模様を下のビデオで見ていただきたい。ポルテやティールがふんだんに登場する。ルーレットやドゥミポルテは使っていない。アプローチもポルテで投げている。地面の影響を受けにくいからだ。
仁和寺から嵐山までは京福電鉄を使う。途中乗り換える必要はあるが、終点が嵐山である。嵐山の駅を出ると観光客で賑わっていた。お土産屋さんもたくさんあるし、人力車がたむろして、客待ちしていた。次に観たいお寺として目指していた天龍寺は駅のすぐ前である。ビデオを撮影していたら、いきなり、市長選挙の宣伝カーが通りすぎ、大きな声がまともにビデオに録音されてしまった。京都はどういうわけか、共産党が強いところらしい。
駅前の通りから天龍寺の境内に入ると静かになった。石畳の路をまっすぐ行くと、方丈に入る庫裡がある。龍安寺とは、同じ禅宗で宗派も同じ臨済宗のためか庫裡の格好もそっくりである。庫裡というのは、本来、台所の意味だが、禅宗では玄関を意味するようだ。庫裡の中に入ると正面の達磨さんの絵がこちらをにらんでいた。靴を脱いで、方丈の縁側に出ると大きい池を中心とした庭が広がっていた。その向こうには緑で覆われた高い築山がそびえていて、美しい景観を池に写している。この曹源池に面して、この寺で最も大きな建物である方丈にはいくつかの部屋があるが、中に入って座って池を見ると、良い景色だ。大きな一眼レフのデジカメを持ったおばちゃんに、「ここから撮ると良い写真が撮れますよ」と云うと「入っても良いのですか?」と聞くので「入ってはいけないとは書いてないから、大丈夫ですよ」と云ってやった。おばちゃんは部屋の中に入ってきて、さかんにシャッターを押していた。最近はカメラクラブが多いせいか、あまりカメラに似つかわしくないおばちゃんが大きな一眼レフカメラを持って写真を撮っている光景によくぶつかる。どうみても良い写真にはなりそうにないところを撮っているので、つい口を出してしまう。朝ドラ「ちりとてちん」に出てくるフリーライターの奈津子さんみたいな女性だと一眼レフカメラはよく似合うのだが。
天龍寺は南北朝時代に吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が、夢窓国師を開山として創建したお寺である。もともと、この地は後嵯峨上皇の仙洞御所があった所で、後醍醐天皇も幼少の頃、ここで過ごしている。この寺院を建立するための資金調達のために、夢窓国師は、「天龍寺船」による中国、明との貿易を進言している。夢窓国師は夢窓疎石とも呼ばれているが、西芳寺(苔寺)の開山でもあり、優れた作庭技術を持っていた。さらに、明との貿易である勘合貿易のきっかけまで作っているから、商才まであったと思われる。足利義満が、自分の死後、とっくに亡くなっている夢窓国師を金閣寺の開山にするように遺言したのも、勘合貿易によってもたらされた富によって、室町幕府が大いに栄えたからであろう。
方丈の中だったと思うが、足利尊氏の束帯姿の木像があった。最初に見たときは後醍醐天皇の像かと思ったが、そうではないらしい。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代の将軍であるが、後醍醐天皇を敵にまわしたために、明治以降は逆臣扱いを受けている。鎌倉幕府の北条氏を稲村ガ崎の戦いで打ち破った新田義貞や、湊川の合戦で足利軍と戦った楠木正成が忠臣として扱われているのに対して、尊氏は、歴史上、ずいぶん損な役割を演じている。
実際は鎌倉幕府の崩壊後に「建武の中興」という天皇親政の時代があり、その後に南朝と北朝に分裂、南北朝時代が始まる。尊氏は現在の天皇の祖である北朝側の臣下であり、後醍醐天皇の南朝とは対立していた。尊氏は決して、北朝の天皇をでっち上げたわけではない。鎌倉幕府の末期には、皇室が二派に分裂し、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につくことになっていたのである。建武の中興のときは、大覚寺統の後醍醐天皇による天皇親政となるが、鎌倉幕府を滅亡に追いやった豪族に対する恩賞に不満を持つ武士たちが反旗をひるがえし、持明院統の光明天皇を擁立する足利尊氏に従った。尊氏は後醍醐天皇側の新田義貞や北畠顕家、楠木正成と戦い、一度は敗北し、九州に逃れるが、西国の武将を募り、再度上京して、後醍醐朝廷軍に勝利したのである。後醍醐天皇は吉野に落ち延び南朝を打ち立てた後、南北朝時代に入る。南朝は50年程続き、足利義満の時代に衰退している。
鎌倉幕府の衰退から南北朝時代、室町時代初期までの戦乱を描いた物語として「太平記」がある。「平家物語」に比肩できるほどの軍記物語である。私は吉川英治の「私本太平記」を読んだことがあるが、戦後に育った私にとっては、それまで、あまり聞いたことの無かった話で、私の父がよく歌っていた「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、木の下陰に駒止めて・・・」の楠木正成や、歴史では少し習ったけれど、あまり明確にされない足利尊氏や新田義貞が活躍するという興味深い物語であった。民主主義の戦後になっても、その頃の天皇や皇族がもろに生身の人間として描かれるため、長い間、映画になることも無かった。「太平記」は、昭和が終わり、平成3年にやっとテレビで大河ドラマとして放映された。「平家物語」に出てくる源義経に相当する人物が「太平記」にも登場する。若くて美男子と云われ、優れた公達武将であった北畠顕家である。顕家は公家の出であるが、後醍醐天皇の命により鎮守府将軍として奥州に出向いている間に、足利尊氏らが天皇に反旗を翻したので、急遽、京に向かい、新田義貞や楠木正成とともに、尊氏軍を打ち破っている。旗印は「孫子」から採った「風林火山」であった。武田信玄の専売特許ではない。テレビでは顕家役を後藤久美子が演じており、美しく凛々しい若武者であった。実際に、北畠顕家は京や鎌倉、奥州で何度もの歴戦を重ね、敗れることは無かったが、ついには疲労と怪我により徐々に兵力を喪失して、石津(堺付近)の戦いで討ち死にしている。享年21歳であった。顕家の子、北畠顕成は、後に村上師清を名乗り、この家系が戦国時代に村上水軍として発展する。
天龍寺を創建した足利尊氏の話から脱線して、「太平記」の世界にまで入ってしまったが、天龍寺は明との貿易まで行い資金を調達して建てられただけに、広大なお寺である。創建当時は今の嵐山の渡月橋あたりまで、境内が広がっていたと云われている。曹源池の奥にある築山に登ると、京の町全体がよく見えた。今ではビルがたくさんあって、それほど景色は良くないが、当時は京を一望に収めることができたに違いない。
天龍寺を出て、嵐山の名物、渡月橋の映像を撮り、そのあと、京福電鉄で太秦の広隆寺へ向かった。
広隆寺は初めてで、弥勒菩薩の映像を撮りたかった。広隆寺は太秦広隆寺駅のすぐ前である。車も電車も通る道路に面している。「弥勒菩薩半跏思惟像」があまりにも有名で、「弥勒さんのお寺」、広隆寺が京都随一の古さを誇る寺院であることを忘れがちである。広隆寺は聖徳太子から賜った仏像、すなわち「弥勒菩薩半跏思惟像」を本尊として祀るために秦河勝が建立した寺である。この太秦の地は渡来人、秦一族が治めており、養蚕、機織などの大陸や朝鮮半島の先進文化の中心地であった。
境内の中は南大門の外から入ると急に静かになる。観光客がほとんどいない。目当ての「弥勒さん」は一体だけが本尊として納まっているのかと思ったら、新霊宝殿の中には他にも国宝級、重文級の仏像がたくさんあった。勿論、目当ての「弥勒さん」が中心に置かれているが、すぐ横に「弥勒菩薩半跏思惟像(百済伝来)」があったり、大きい仏像では阿弥陀如来坐像や不空羂索観音菩薩立像、十一面千手観音立像などがデンと納まっていた。それぞれが奈良の仏像にも対比できるような堂々たるものである。不空羂索観音菩薩立像は東大寺三月堂の不空羂索観音を連想させる見事なものだ。残念ながら撮影禁止でビデオどころか、静止画も撮影できなかった。
広隆寺から、また京福電鉄で大宮まで行き、京都駅までバスに乗った。あとは新幹線でまっすぐに帰り、6時頃には東京へ着いた。この5日間の旅行は、日頃のことをすっかり忘れて楽しい思い出だけが残った。
冒頭で述べた、京都は共産党が強いらしいと書いたのは、3月7日の「産経新聞」のコラム『正論』に次のようなことが記してあり、市長選挙では共産党推薦の候補が敗れはしたものの、他政党すべてが推薦する当選者に僅差まで迫ったと書いてあったからである。論旨が面白いので、紹介する。
「日本人は南方から来た縄文人と北方から来た渡来人の混合した民族である。暖かい地方はバクテリアやウィルスなどの脅威にさらされるために、女は免疫力の強い男との子を生みたがる。だから、一夫多妻になり、あぶれる男も増える。いわば不平等の世界である。一方、寒い地方ではそういう脅威が無いので、一夫一妻になり、平等主義になる。平等主義になると批判精神が生まれてくる。京都は秦氏などの渡来人が開拓した土地で、その勢力は今でも残っているのであろう。批判精神に満ちた人の多い京都で共産党支持者が多いのはそのためである。」
下鴨神社を出て、しばらく下鴨本通りをあがり北大路通へ出て金閣寺方面へのバスに乗った。
金閣寺は京都の北西にあって、北東の銀閣寺とは対称の位置にある。どちらも、山荘として作られており、外観はあまり寺院の形態をなしていない。東山の北側にある銀閣寺は、花見によく行った蹴上から南禅寺、哲学の道のコースの終点で馴染みが深い。一方、金閣寺の方は観光バスで何度か来ているが、写真でいつも見ているせいか、実物としては、なんとなく印象がうすい。
金閣寺に着くと、観光バスがたくさん来ていた。中に入るとたくさんの観光客がいて、いろんな国の言葉が飛び交っていた。久しぶりに見る金閣と鏡湖池の姿はやはり美しい。庭園と金閣のバランスが実にすばらしいのだ。この光景を見ると、外人の目では確かに、日本を「黄金の国」と云いたくなるかもしれない。ジパングを「黄金の国」と云ったマルコポーロは金閣が出来る100年ほど前の人で、金閣の姿を見ていない。彼が聞いた話は中尊寺の金色堂のことである。三階建ての黄金の家を見たら腰をぬかしたにちがいない。
10年ほど前の話だが、私が、発足したばかりの写真クラブに入ったとき、先生から、「これまで撮った写真で一番良いと思うのを持ってきなさい」と云われて、一緒に入った会員の一人が金閣寺の写真を持ってきた。池に綺麗にその姿を写している金閣の写真だった。それを見て、女の先生が「とても綺麗ね。まるで絵葉書みたい。」と云ったのを思い出した。金閣寺の写真を撮るのは極めて難しい。良い写真を撮ろうとすると、どうしても絵葉書みたいな写真になってしまう。だから、プロが撮った写真は、京都では珍しい、雪が降り積もった時の写真とか、モノクロの写真になっている。庭園と金閣のそれぞれの美しさが一つの景観として溶け合い、みごとなまでに統一感のある鮮麗な美をつくりだしているのである。
金閣寺は室町幕府が最全盛の時代で、明との貿易で栄えた頃に三代将軍、足利義満が建てた山荘である。極楽浄土の世界を夢見て建てただけあって、その当時の贅を凝らして建てた、現代でも日本の代表的な建物である。三階建ての住居というのも珍しい。一階は寝殿造り、ニ階は書院造り、三階は唐風造りとなっている。窓や雨戸の形を見れば想像できる。義満は自分が死んだあとは、尊敬していた、夢窓国師を開山として寺とするように遺言している。義満の死後、その法号をとって、「鹿苑寺」と云う名前がつけられてた。
金閣以外にもいくつかの建物があるが、境内の中が、順に見て廻るコースになっていて、そのまま歩いて行くと、いつの間にか外に出てしまった。シーズンオフの今の時期でも観光客でずいぶん賑わっていた。
金閣寺を出て、バス停に行ったら、ちょうどバスが出たところで、次の龍安寺まで歩いた。立命館大学のわきの曲がりくねった路を歩いたが、結構な距離である。
龍安寺の山門を入り、鏡容池の右側の道を行き、そのあと石畳の参道を通って、階段を登ると禅寺風の庫裡に突き当たる。庫裡で靴を脱いで、縁側に出ると、写真でよくお目にかかる枯山水の石庭が目に飛び込んできた。青い目の外人客も多い。何人かは縁側に腰掛けて、庭を鑑賞している。15個の石が配置されていて、石の周りは苔で囲まれている。庭は低い土塀で囲まれているが、土塀の色と、砂利の白がうまくマッチしていて目をなごませる。
この石庭がこの寺ではあまりにも有名で、それしかないような印象を与えるが、この寺はかなり広く、水をたたえた鏡容池には、鴨や白鷺の姿が見えた。
龍安寺の次に仁和寺に向かった。歩いて行ったが、仁和寺に着いたのが夕方で、すでに門は閉まっていた。
翌日、ホテルからバスで再び仁和寺に行った。仁和寺は桜の時期に行ったことがあって、ちゃぼ桜の印象が強く残っている。この桜は御室の桜といわれ、背が小さい八重桜で4月の下旬に開花する。「ちゃぼ桜」というのは、ネットで調べても出てこない。私の勝手な呼び名なのかしらと思うけれど、自分がそれほど風流とも思えないし・・・・。
御室と呼ばれるのは、仁和4年(888年)に宇多天皇によって創建され、天皇が退位後、ここに住まれたからで、御室御所とも呼ばれている。明治維新までは皇子皇孫が門跡となっていたという。
仁和寺は法皇の住まいとして建立されただけあって、広大な敷地に宸殿、黒書院、白書院などの住居としての建物と金堂、五重塔などの寺院としての建築物が、場所を分けて配置されている。
仁和寺は私が学生の頃から馴染みが深い。多分、国語の教科書に引用されている、「徒然草」の五十二段から五十四段に登場する仁和寺の法師の話のためであろう。「方丈記」にも「養和の飢饉」の項に、仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)の話が出てくる。「徒然草」が半ば滑稽な話としているのに対して、「方丈記」がかなりシリアスな話になっているのは、時代背景も違うし、作者の人生観が異なるからであろう。
四月の下旬に、御室のちゃぼ桜を観に行きたいし、五月には葵祭りにも行ってみたい。夏は祇園祭りがあるし、京都の人が羨ましい。
伊勢から近鉄を使って京都に向かった。斎宮史跡を見たあとで、京都に着いたのはもう5時を過ぎていた。
夕食はからすま京都ホテルのすぐ近くにある割烹「うをすえ」に行った。カウンター席が広くて、ご主人夫妻や息子さんが気さくに話相手になってくれた。店が綺麗で、手頃な値段でおまかせ料理がいただける。一人旅にはうってつけの料理屋である。
翌日は最初に上賀茂神社に行き、次に下鴨神社に行くことにした。二つの神社を合わせて賀茂神社という。
京都三大祭のひとつ、葵祭で有名な神社である。わが国の祭のうちでも、歴史も古く、最も優雅で古趣に富んだ祭として知られている。平安朝の優雅な平安貴族そのままの姿で行列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かう。
この賀茂神社は御所の近くにあって、宮城鎮護の神様であるだけではなく、京の都の地下水脈の中心になっている。京料理が美味しいのも、この豊かな地下水のおかげである。水の都、京都の文化をはぐくみ育ててきたのがこの水脈であることが、頭にあって、私をこの神社に最初に向かわせたのだと思う。
京都の中心部を流れる鴨川は、上賀茂神社の付近では賀茂川で、下鴨神社を下ったところで高野川と合流して鴨川となる。京都御所は川をへだててすぐそばにある。
上賀茂神社も下鴨神社も広大な敷地に多くの社殿を持ち、規模の大きさでは伊勢神宮にも匹敵するほどである。伊勢神宮と同じように、式年遷宮が行われる。ここの場合は21年毎で次の遷宮は平成27年になっている。また、ほとんどの建物は国宝や重要文化財になっているため、大修理をもって遷宮としているようだ。両神社ともに世界文化遺産に登録されている。
上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ)」で、写真などで有名な、拝殿前に二基の立て砂が置かれている。これは神が降りたつ場所とされているが、上賀茂神社のシンボルマークになっている。私が行ったときは、二月の平日で観光客はほとんど無く、参拝者も地元の人がまばらにいる程度だった。
バスを降りて、案内の矢印をたよりに境内に入って目に付いたのが、昨日まで伊勢神宮で見ていた「式年遷宮」の大きな看板だった。ここにも、同じような行事が行われるのだと、そこで気が付いた。鳥居をくぐって中に入ると、ガイドブックに載っている拝殿の前に立て砂が二基並んでいる光景が現れた。さらに入ると、朱塗りの綺麗な楼門と本殿が見えた。伊勢神宮とは異なり、平安朝以降の神社の建築様式となっている。静かなせいか、歩くときの砂利の音がやけに響く。それと、京都の守護神というより、地下水脈を守る神と思いたくなるほど、あらゆるところに、水音が聞こえる。
上賀茂神社は京都の北部に位置するが、下鴨神社に行くバスがあった。ここで、実感が湧いてきたのだが、バスを使えば京都はどこでも行けるということだ。観光客は乗っていないが、地元の人はみんなバスを使っているようで、乗客は多い。下鴨神社前でバスを降りると、神社の境内の横から入ることになる。本来の参道は糺の森(ただすのもり)を通る。この広大な糺の森には多くの小川が流れていて、まさに、水の都、京都のシンボルである。
下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)である。上賀茂神社と同じように、歴史的には古いが、桓武天皇の平安遷都により、宮城の守り神として大いに栄えたという。
美しい朱塗りの楼門を入って、点在する社殿を見てまわるのも良いが、春や秋の季節の良い頃、糺の森を散策するのが最高かも知れない。今回は、お供え物の調理どころである「大炊殿」と斎宮から移したと云われる「葵の庭」の特別拝観ができた。
天皇家の守護神として、この賀茂神社にも、伊勢神宮と同じように斎王制度が嵯峨天皇のときに設けられ、400年もの間、天皇の内親王が賀茂神社の神に仕えている。賀茂神社の場合は斎王ではなく、斎院と呼ばれていた。現在でも、葵祭りのときは斎院の代わりとして民間から斎王代が選ばれ、禊をしたのち、十二単をまとい、輿に乗って斎王代列をなし、行列に加わる。
小倉百人一首にも入っている、後白河天皇の皇女、式子(しょくし、のりこ)内親王は賀茂神社の斎院であった。式子内親王は新三十六歌仙に選ばれ、新古今和歌集や千載和歌集に多くの歌を残している。彼女が斎院であったときに詠んだ歌が次の百人一首に出てくる歌である。
新古今集 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする」 式子内親王
(私の命よ、絶えるなら絶えてほしい。このまま生きながらえていたら、胸の思いをこらえて、耐えている力も弱ってしまうかもしれない)
賀茂齋院で神に仕える身で定家と恋仲になりながら、それを忍び、耐えねばならないという胸の思いを歌っている。定家は云うまでもなく、新古今和歌集の撰者の一人、藤原定家のことである。
この賀茂神社に関連した、忘れてはならない人物として、式子内親王とほとんど同じ時期に生きた鴨長明がいる。鴨長明(かものながあきら)はこの下鴨神社の神事を統率する正禰宜(しょうねぎ)、鴨県主長継(かものあがたぬしながつぐ)の次男として生まれている。若い頃は歌人として、その名を馳せたが、出家した後に著したのが、「徒然草」、「枕草子」と並んで三大随筆と呼ばれる「方丈記」である。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくの如し。・・・・・」と世の中の無常を嘆き、最後は諦観の境地に至って、この随筆を終えている。
式子内親王と鴨長明が生きた時代は、まさに、「平家物語」に書かれた時代である。その冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。・・・」という有名な文章も「方丈記」と同じ、人の世の無常さを謡っている。式子内親王も鴨長明も、平清盛や後白河法皇、建礼門院と同じ時代に京の都で生きていたのである。
賀茂神社を流れる川の水を見ながら、京の都をはぐくんで来た水は、絶えることなく流れ、千数百年の間、権力や貴賎に拘わらず、人々の生活を支え続けてきたのだと、あらためて考えた。