今年もなんとか無事に終わりました。私にとっての今年の大きなニュースは個人的に考えると以下のとおりとなる。
1.家のリフォーム
なんと云っても、家のリフォームは大変だ。とくに全面リフォームで2ヶ月間くらい辛抱の生活をしいられた。3月半ばに着工して終ったのが5月半ばである。その間、ほとんどが一階の和室で生活し、二階の和室で寝るという毎日であった。朝昼がコンビニ食で夕食は外食というパターンだ。
門や塀もすべて直したので、外装も内装も新築同然になった。冬はコタツを使わずにすむし、電気毛布も使っていない。一階は外の音が全く入ってこないのでテレビの標準音量は以前は20だったのが17になった。二階は単なる二重ガラスなので、防音はそれほどではないが、以前よりかなり静かだ。
2.ブログ開始
ブログを書くことによって、漫然とした生活の中でも、いろんなことを深く考えるようになったと思う。そして、書くという楽しみが趣味の一つとして加わった。写真を撮るにしてもブログのネタに関連して撮るので面白い。とくに動画の撮影や編集が面白い。ブログツールはVoxを使ってよかったと思う。YouTubeの画面が簡単に持ってこれるし、自分のビデオカメラやデジカメで撮った動画も取り込める。写真のフリッカーと連携しているのでスライドショウも作れる。
3.佐賀北高校の甲子園優勝
今年の夏の甲子園は佐賀北高校の優勝で佐賀県が注目をあびた。今年の正月番組で「佐賀のがばいばあちゃん」が放映されたことも大きいが、佐賀県のイメージがすっかり変ったのではないかと思う。
それまでは、テレビドラマ「おしん」の姑さんの嫁いびりや、寅さん映画「僕のおじさん」に出てくる尾藤イサオ演ずる泉ちゃんの叔父さんの意地の悪さ。もっとさかのぼれば松本清張作「張り込み」に出てくる、犯人の元恋人の20歳以上年上の旦那の吝嗇(けち)さ。昔から言われている「佐賀んもんの通ったあとは草も生えん」というイメージ、佐賀人の器量の狭さや内弁慶ぶりが、佐賀北高校の優勝で払拭されたような気がする。なにしろ、どんな試合になってもあきらめない、忠実に練習したとおり試合をやっていく態度には感激させられた。佐賀県人として選手たちや監督さんに「どおもありがとう」と云いたい。
佐賀北高校の優勝で「文武両道」と云う言葉が流行ったが、野球部の三年生は立派な大学に進むようだ。キャップテンで捕手の市丸君は早稲田、エースの久保君は筑波大学、逆転満塁ホームランを打った副島君は福岡大学に行くと云っていた。(佐賀新聞)
4.息子の独立
家をリフォームするため、息子が寝る場所もなくなるので、その前に独立して住むように息子に頼んだ。彼も多分、喜んで出て行ったと思う。すでに30をとっくに過ぎた男の子が、未だに両親の家で寝起きしているのもおかしい。彼のためにもならないし、女房が子離れしていないのも困っていた。
我家と勤務場所の間に新築のアパートが見つかったので、そこに住んでいる。手賀沼のすぐそばだ。
独立して住むのは良いが、たまには帰ってきて、元気な姿も見せて欲しいと思っている。私も今になってわかる親の気持ちだ。それと、嫁さんも良い女性を見つけてほしい。すくなくとも、自分の親類にばかりくっついて、自分の旦那の親類には寄り付きもしないような嫁さんでは困る。昔から、「お見合い」を毛嫌いする風潮があるが、いろんな女性にめぐり会うためには「お見合い」というシステムは極めて合理的である。今は仲人をたてて、堅苦しい挨拶もいらないし、両親が付いていなくても良いのだ。「合コン」というのはお見合いの一種だが、そんなつもりでお見合いして、そのあとじっくりと付き合って、結婚するかどうか決めれば良い話だ。テレビドラマや映画で「お見合い」をまるでだめなように扱っているのも困ったものだ。
5.我孫子オーディオファンクラブ入会
私は高校生時代からのクラシックファンだが、これまでオーディオシステムにそれほどのお金をかけてはいない。クラシックは演奏と録音が大事で、再生装置はそこそこのものであれば良いと思っている。リビングルームには7.1チャンネルのサラウンドシステムがある。もともと、オーディオ用として購入したもので、音としては満足できる。
問題は女房がクラシックを好きではないし、大音量で聞くとうるさがるので、本当に良いオーディオシステムの音を聴いてみたいということと、生演奏並みの大音量で聴きたいと思ってAAFCに入会した。
同好の士がいるということはありがたいことである。それと、それぞれの得意分野、たとえば自作スピーカーやアンプを作るのが好きな人、ジャズを聴くのが好きな人とか、いろんな人とお話ができるのが良いと思う。
6.NOVAの破綻
NOVAにはずいぶん長く通った。1998年の4月にNOVA我孫子校ができて、私が入ったのが、その年の9月だ。そして、VOICE会員の期限が切れたのが、今年の8月、NOVAが会社更生法の適用申請したのが10月である。NOVA我孫子校が存在したほとんどの期間、私は8年間、通ったことになる。英会話力もそれなりに付いたと思っている。
NOVAは少人数制のレッスンで、私がレッスンを受けていた頃は3人までで、3人揃わず2人とか1人のときもよくあった。以前の英会話教室はまさに教室形式で10人とか15人が習うというスタイルだった。それではなかなか英会話は上達しない。
NOVAが無くなって、そのあとは、通常の英会話教室があとをひきうけると聞く。なぜ、システム的にはとても良い英会話教室がなくなり、経営的には合理的かもしれないが、生徒にはちっとも良くないところが存続するのだろう。確かに経営者は良くなかったかもしれないが、良いシステムは是非とも残して欲しいものだ。
今日、NOVAで検索したら、ジー・エデュケーションという会社がNOVAのシステムを継承するようだ。5人クラスとなって、月謝制になるらしい。行きたいときに行けるという制度はない。それに、残念ながら我孫子にはまだ無い。
7.株価下落で金融資産減少
昨年のライブドアショックもひどかったが、今年のサブプライムローンの破綻による株価下落はひどい。米国発の不良債券のばら撒きで、全世界的な株価下落となった。
私は保有金融資産の中で株式比率が高い方だろう。ただ、悪い中でも、今年の半ばまでに、リフォームをやり、株を売って支払ったこと。さらに、10年サイクルで廻って来るブラックマンデーを予測していて、株を売り、他の金融資産にまわしたことが被害を少なくしたと思って、自分を慰めている。ブラックマンデーは1987年10月19日に起こった出来事であるが、その10年後の10月にもアジア通貨危機をきっかけにして株価大暴落が起こっている。今年のサブプライムローンの焦げ付きによる暴落も1日での急落ではないが、1週間程度かかった大暴落となった。10年前も20年前も株価低迷は1月まで続いている。今回はもっと長くなるかもしれないが、前の株価下落の2年後にはバブルが起こっている。そのとき、ハッピーな気持ちになればよい。
8.ペタンク大会で優勝
私は近隣のスポーツクラブである根戸エンジョイクラブでペタンクの幹事をやっている。私のクラブで3チームが出場したが、各チーム合計の戦績は8勝1敗と、すばらしい成績を残した。勿論、優勝チームは我々のクラブから出た。
高円寺の名曲喫茶へ行ったあと、新宿の喫茶店「らんぶる」から今晩行く予定のスペイン料理店に予約を入れようと電話したら、すでに満席だとの応えだった。待ち合わせが、その店で6時半である。すでに6時を過ぎていた。あわてて携帯に入っているイタリアレストランに電話したが、ここも7時半から予約が入っていて満席になると云う。とりあえず、一緒に食事する二人に連絡し、新宿駅東口交番前で落合うことにした。
交番前はものすごい人だかりだった。いつもはこんな光景ではないが、年末の夕方6時半で、仕事納めの人もたくさんいるのだろう。私たちも今年最後の飲み会で他人のことは云えない。
年末のこの時期は、都心はどこも混んでいる。レストランは飲み会で一杯だし、デパートやスーパーはお正月の買い物で混雑する。新幹線や飛行機、道路は帰省客や海外でお正月を過ごす人でごった返す。例年、私は暮れのこの時期は伊豆半島の温泉に行く。クリスマスと29日の間だ。ほんの少しずらせば旅館も道路もがら空きになる。しかも、富士山の景色が一番綺麗な時期である。
私は故郷が九州で、帰るのに片道24時間かかる。それでも、大学生時代や、就職後も独身時代は年末は帰省せざるをえなかった。お正月の三が日はどこも休みで、食事をするところもなかった。今はファミリーレストランやコンビニは勿論、スーパーが元日でも開いているので、食事に困ることがない。生活面での理由もあるが、それ以上に私が帰ることを心待ちにしていた両親がいたからである。何にも益して、自分の元気な姿を見せることが最大の親孝行だったのである。いつも、混んだ列車に乗って帰るのに苦労した。今だと新幹線や飛行機が使える。特急列車やましてや急行列車で帰る人は少ないだろう。
私の父親は商売をやっていたので、大晦日になると夜遅くまで集金に駆け回っていた。父が帰るまで待って、夜11時頃に一緒に家のすぐ前のガソリンスタンドでスクーター(ラビット)を洗うのが私の仕事だった。仕入先の集金人さんも、父の帰りを待っていた。その頃まで、日本の商売の締めが「盆暮れ」と云って、お盆か年末に支払うのが普通で、一時金は払っても、残りは掛けで商売が成り立っていたのである。なかには手形で払うお客さんもいたが、クレジットカードは勿論、銀行振込みなどが無かったから、年の暮れになると集金に駆けずり回る忙しさだったようだ。父は家に帰ってから、深夜に床屋に行った。その頃は大晦日になると床屋さんは徹夜で営業していた。
元旦になると、みんな晴れ着を着て、まずは神棚にお参りして、歳をとり、その年が幸せであるようにお祈りした。そのあと、近くの神社に初詣に行った。小さい頃は写真屋さんで記念写真を撮ってもらった。カメラなど一般家庭には無かったから、写真を撮ってもらうのはお正月やどこか旅行したときに蛇腹の付いた写真機で撮ってもらうくらいだった。
今はテレビでお正月番組をやり、それでお正月の気分になるが、その当時はテレビは無かったが、今よりはるかにお正月らしかった。
新宿東口の交番前で6時半を少し過ぎた頃、携帯に入れていた電話番号でトルコ料理の「イスタンブール」の席が取れた。まもなく3人が集まったので「イスタンブール」に行った。ほとんど予約で埋まっていた。
8時頃からベリーダンスが始まった。この店は何度も来ているが、いつもは早い時間に店を出るので、ベリーダンスショーを見るのは初めてである。お客さんまで巻き込んで賑やかなショーだった。
新宿で食事会があるので、早めに出て、高円寺の名曲喫茶に行くことにした。家を出る前に、ネットで場所の見当をつけておいた。
高円寺には「ネルケン」と「ルネッサンス」の2軒の名曲喫茶がある。「ネルケン」は歴史も古く、ファンも多いようだ。もう一つの「ルネッサンス」は、前回の名曲喫茶廻りで行った、阿佐ヶ谷にある「ヴィオロン」の入り口に貼ってあった案内書きを、写真を拡大して見つけた。場所はそれを頼りにしてネットで探し出した。
地図で見て近い方から廻ろうと思い、まず「ネルケン」に行った。時刻は3時を過ぎていた。お昼と夕方の営業の間なのか、入口に「準備中」という札がかかっていた。
順序を替えて、先に「ルネッサンス」に行った。「ネルケン」からは遠くない。ここは開店が11月23日で、出来たばかりの店である。地下に降りてドアをあけると、中はずいぶん暗い。しかも壁には古い掛け時計やランプ、楽器がたくさん飾ってある。これが開店早々の店かと思うほど古いものがずらりと置いてある。まるで店全体が古くからある名曲喫茶に見える。「ヴィオロン」と同じように真ん中がボックス席のようになっていて、周りが高くなっていた。多分、経営者が同じなのだろう。お客は一人もいない。感じの良い若い女性が一人で応対してくれた。
AAFCの名刺を出して、その女性に聞いてみたが、スピーカーはタンノイと言うだけで、型名はわからないそうだ。アンプは手作りの真空管アンプを使っていて、すべてLPレコードを利用しているという。ここでしばらく、音楽に聞き入った。最初はスカルラッティのチェンバロソナタをユゲット・ドレフュスの演奏で聴いた。音の響きはとても良く、チェンバロ独特のバロック的単調さがなくて、根戸小学校で聴くよりはるかに良い音であった。バロック音楽を聴くには良い喫茶店であると思う。席は30名程度が入れそうだ。
バロック中心かと聞いたら、そうではないようだ。次にブラームスの交響曲第4番をワルター、コロムビア響の演奏で聴いた。パチパチ音が目立ったが、音響的には良いと思った。お店の中は私一人で、若い女性は横にある明かりの灯った部屋で本でも読んでいるのであろう。あまり長居してる雰囲気でもないが、40分ほどもいたと思う。
4時を過ぎて、もう夕方の営業が始まっているだろうと思って「ネルケン」に行った。「営業中」の札が掛かっていた。中に入るとすでに数人のお客が入っていた。室内は明るく、本を見ながら勉強している女性もいた。壁はたくさんの絵が画廊のように飾ってある。ややお歳を召した品のあるご婦人が一人で営業している。スピーカーは天井に近い高い台の上に横にして置いてある。ダイヤトーンだということだ。タンノイほど大きくはなく、重厚さもないが、音の響きは良かった。壁や店の構造にも音響を良くする工夫がなされているのだろう。
入ったときはデジュー・ラーンキ演奏のモーツァルト、ピアノソナタが鳴っていたが、次にシゲティ演奏でトビッシーの「月の光」などが入ったヴァイオリン曲集を聴かせてくれた。
「ルネッサンス」に比べると気楽に音楽を聴きながら会話もできそうな雰囲気である。椅子やテーブルもきれいで居心地も良い。クッキーを食べながらコーヒーをいただいた。
高円寺の2軒の店は、どちらも駅から近くて便利だ。じっくり音楽を聴くなら「ルネッサンス」、気楽に本でも読みながらゆっくりするなら「ネルケン」という感じだろう。次に新宿で飲むときはどちらかに寄ってみようと思う。
せっかく高円寺まで来たので、阿佐ヶ谷の駅まで行って、学生時代に住んでいた下宿あたりまで行ってみた。駅の横の線路沿いにある一番街はわかったが、その先がまるで見当がつかない。住宅街も家が建て込んでいて、道がやけに狭い。40年前と今の道路幅の感覚がまるで違うのである。早々にあきらめて、駅まで戻り、新宿に向かった。
ネットで調べてみると、新宿には「らんぶる」という名曲喫茶があるという。飲み会の場所に近いので行ってみたら、確かに喫茶店はあるが、すでに名曲喫茶という形態は止めて、普通の喫茶店になったと云われた。中は明るく広くて綺麗だが、小さな音でベートーヴェンの「田園」が鳴っていた。
追記)「ルネッサンス」は、以前、中野にあった「クラシック」という名前の名曲喫茶が移転してきたようだ。古い時計やランプ、オーディオもそこから持ち込まれたとネットに記してあった。住所は以下のとおりです。
杉並区高円寺南2-48-11 「ネルケン」のすぐ近くです。
11月24、25日にテレビ朝日で放映された、松本清張の『点と線』の録画を見た。2日間、正味4時間の番組であったが、テレビドラマとしては、まれにみる秀作となっていた。
テレビ朝日開局50周年記念番組として銘打っているだけあって、極めて丁寧に製作されており、出演俳優も豪華キャストと云えるような布陣であった。
設定は昭和32年となっており、その頃の服装や、電気製品、新聞、雑誌、看板、建物などが実に木目細かく忠実に描かれている。この時期は私より古い年代の人たちが、みんな知っているのだから、ごまかしがきかない。当時の思い出もあって、ずいぶん細かいところまで興味深く見せてもらった。
『点と線』は松本清張のヒット作で、清張はこのあと続々と長編推理小説を世に送り出している。それまでの横溝正史や江戸川乱歩などの探偵ものとは一線を画した社会派推理小説を確立したと云ってもよい。私は、この小説を読んだ後、ずっと推理小説のとりこになってしまった。私だけではなく、この本がベストセラーになったあと、時刻表を買う人が増え、関連した本がたくさん売れるという、時刻表ブームまで起こっている。
テレビドラマ『点と線』では、たかだか260ページ程度の普通の文庫本のストーリーに正味4時間もの時間をかけている。普通は、この程度の推理小説では2時間で済ますところをその倍の時間を使っている。推理小説をテレビドラマ化して、その情景描写を綿密に入れると、そのくらいの時間はかける必要があると思う。この小説のもっともキーとなるアリバイ作りが東京駅でのシーンである。13番線から15番線に停車している特急「あさかぜ」を見ることができるのがたった4分しかないという、この情況を再現するために多くのコストをかけてセットを作ったという。
小説『点と線』とテレビドラマとはかなり違っているところもあるが、現代の視点で作られたテレビドラマが小説を補っているところが多かったと思う。たとえば、小説では福岡市の香椎海岸で一組の男女が死体で発見されたときの情景描写を、テレビでは被疑者の妻が同人誌に投稿した随筆の中に入れて、被疑者に土地勘のあることと、なぜ香椎海岸でなければならなかったかを説明している。また、東京駅でたった4分間の間に13番線ホームに目撃者をつれて行くのはそれほど難しくないが、同じ4分間の間に被害者の男女を15番線ホームにいかにして立たせるかという設定は実は小説にはない。文庫本の「解説」ではそれが指摘されているが、テレビでは、やや弱いもののなんとかカバーしている。小説でもテレビでもおかしいのは、男女の死体が発見されたとき、男性の衣服のポケットから出てくる食堂車の領収書が一名となっている点を老刑事が怪しむことである。しかも、一週間も前から福岡の旅館に男性が一人で宿泊していたことが翌日に判明している。この時点で、二人が別々に福岡に来たと考えるのが自然であって、食堂車の領収書が一名となっているのは不思議でもなんでもない。二人が同じ「あさかぜ」に乗ったことを目撃した証人が現れるのはそのあとのことである。東京駅での4分間がなければこの小説そのものがちっとも面白くなくなる。その4分間に二人を目撃するシーンが小説の最初に出てきて、そのすぐあとに、死体発見の場面があるため、作家が勘違いしてしまったのではないかと思う。
小説を映像化するときに、どの程度原典に忠実に従うかが問題となる。今回のテレビドラマでは主役が博多東署の鳥飼刑事になっていて東京や秋田にまで出張している。小説では彼は福岡を一歩も出ず、福岡、札幌、鎌倉はすべて警視庁捜査二課の三原警部補ひとりでの捜査になっている。本来ならば警察官一人での単独捜査というものは許されない。しかも事件が発生した所轄所の刑事がほとんど動かないというのも変である。テレビドラマとしての主張があって、現代風にアレンジしたものと思う。
文字で書かれたものをテレビドラマ化した場合、どうしても映像化できず、ナレーションに頼らざるをえない部分がでてくる。そうすると、ストーリーがわかりにくくなり、視聴者には緊張を強いることになる。むしろ、原典とは少し異なっても、視聴者に理解しやすくしてくれた方がよい。その点でも、今回のテレビドラマ化は非常に優れたものといえよう。このあと、松本清張シリーズを続けていただけるのなら、他の小説もこのくらいの丁寧さでドラマ化してくれたらと願っている。
この小説は昭和32年に書かれている。西暦1957年だから、丁度50年前だ。私が中学生のころである。今と大きく違っているのは、長距離交通手段かもしれない。刑事たちは東京と博多を何度も列車で行き来しているが、いつも4人向かい合わせのボックス席に座っている。数年後ではあるが、私も学生時代は九州に帰郷するのに「雲仙」や「西海」などの急行列車を使った。ドラマと同じように4人ボックス席で座って寝るか、席が取れないときは、通路に新聞紙を敷いて寝たものである。ボックス席で一夜を明かすのは、結構つらい。私が就職したころには、「あさかぜ」や「さくら」、「はやぶさ」などの夜行寝台列車を使った。その当時はB寝台と呼ばれるようになっていたが、3段ベッドで横幅も普通の座席より少し広い程度でずいぶん窮屈であった。
ここで気づくことであるが、「飛行機を使うという発想はその当時はほとんど無かったのか?」ということである。小説の中でも同じであるが、その発想、一発でアリバイが崩れ始める。他の細心なアリバイ工作のわりには、あまりにも単純で唐突な崩れ方である。あとは、結果を三原警部補から鳥飼刑事への手紙の中で種明かしをしている。この小説の最大の欠点はそれであっさりと終ってしまうことなのだと思う。
そういう多少の欠点はあっても、この小説の価値が失われるわけではない。それまでの推理小説は探偵小説が中心で、密室殺人を代表とした、犯人が仕掛けたトリックを名探偵がろくに捜査もせず頭の中だけで解決してしまうというのがほとんどだったのである。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティのエルキュール・ポワロ、横溝正史の金田一耕助、江戸川乱歩の明智小五郎などの名探偵はなつかしい名前だ。実に巧妙なトリックを使った事件を見事に解き明かしてくれる。彼らの小説もずいぶん読んだが、この頃の探偵小説は、ある狭い場所での出来事、いわば点しか扱っていない。それに対して『点と線』は福岡から札幌までの全国レベルでの出来事をあつかっている。題名どおり、点と点を線でむすぶことをやっている。これは、後に書かれる『時間の習俗』で時間レベルにまで拡大される。ぬかりのないアリバイづくりと、それを一歩一歩崩していく推理小説の展開はこの小説で確立されたと云ってもよい。
もう一つの特徴は、犯人が自殺することにより、もっと「わるいやつら」はぬくぬくと生き残るという筋立てである。社会派推理小説というジャンルはこの小説のあとも、清張ものは勿論、森村誠一や西村京太郎のトラベル・ミステリー、内田康夫の浅見光彦シリーズなど最近の推理小説にも引き継がれている。
推理小説が実際の犯罪捜査と異なるのは、犯人の綿密なアリバイづくりがあるところだろう。それをいかに崩していくかが面白いところである。ただし、問題なのはほとんどが状況証拠でしかない。結局、自白か犯人の自殺という結末になってしまうのだ。
私の悪い癖かもかもしれないが、一旦、ある作家の作品を読んで気に入ると、その作家の作品を片っ端から読む癖がある。知らない作家の作品を読んで裏切られたくないからだと思う。
松本清張の作品は、『点と線』のあと『眼の壁』、『蒼い描点』、『黄色い風土』、『ゼロの焦点』、『時間の習俗』・・・・『Dの複合』など本格推理小説はほとんど読みつくしてしまっている。
清張が長編推理小説から古代史やノンフィクションものへと移る頃からは、別の分野の小説を読むようになった。
この『点と線』などの初期の清張作品は、ほとんど高校時代に貸し本屋で借りて読んだ。清張は最近の作家のように多作ではない。次の作品がでるまでの間に、黒岩重吾や高木彬光などの作品も読んだ。現在は内田康夫の作品ばかりで、そろそろ文庫本は読みつくしてしまいそうになっている。
11月末日に、日展を見に行った。昨年までは東京都美術館だったのが、今年から乃木坂にある国立新美術館で展示されている。明るくて、広く、展示スペースも大きい。
今年はカメラを持っていって、ブログの添付写真になるような絵を探した。許可を得て、腕章みたいなものを腕につければ撮影してもよいとのことであった。ストロボやフラッシュは禁止されている。
私は絵に関しては、全くの門外漢である。ただ綺麗だとか、写実的でよく描けてる絵に感心する。
まず、日本画と洋画ってどこが違うのかがよくわからない。以前は、日本画は水彩で洋画は油彩だと認識していたが、どうもそう単純ではないようだ。キャンバスの上で盛り上がっているような絵の具を使っていても、日本画になっているし、モネみたいな日本画もある。第一、昔の狩野派や浮世絵はどうなったのだろう?あのような絵を描いている画家は今でもいるのかしらと、思ってしまう。俳画や墨絵などの分野の絵とか、仏像などの彫刻もあってよいはずである。
どうも、日本の絵画は西洋の影響をあまりにも受けすぎているような気がする。
同時に開催されていた「フェルメール展」は入場料も高い。西洋の作品展にはごった返すほどの人が集まるのに、日展は決して混んではいない。私も含めてだが、海外に行くと、日本人は美術館や博物館を訪れる。日本ではそういうところに行かない人でも。不思議???
ボストン美術館で、たくさんの浮世絵や狩野派の絵を見ることができる。明治維新の文明開化で、西洋の文化を取り入れるかわりに、日本固有の美術品が海外に持ち出されてしまったのだ。
日本画と洋画の違いについて、少し勉強したので、忘れぬように書いておきたい。フェノロサによると、以下のような違いがあるというが、その境界は明確ではないようだ。日本画は、
1.写真のような写実を追わない。
2. 陰影が無い。
3.鉤勒(こうろく、輪郭線)がある。
4.色調が濃厚でない。
5.表現が簡潔である。
そういう目で見るとたしかに、日本画と洋画の違いがわかったような気がする。
ちなみに、狩野派や浮世絵、大和絵、俳画、墨絵などは「日本画」ではないらしい。(Wikipedia)
今年の日展で、なんとなく美しいと思った作品を、スライドショウにしてみた。
23日、AAFCのメンバー5人で東京にある名曲喫茶へ行った。AAFCとしても初めての企画とのことだ。
最近は私が20代の頃に比べると、名曲喫茶いわゆるクラシックを聞ける喫茶店どころか、普通の音楽喫茶でさえ少ない。
私は渋谷の「ライオン」は以前から知っていたが、新宿や池袋にあったような名曲喫茶は、すでになくなっているか、あるいは名前だけしか残っていないようだ。
幹事さんのご苦労で、見つけたところは「ライオン」以外はすべて中央線沿線である。あの沿線には、当日行った3軒以外にももっとあるという。
最初に入った店は吉祥寺の「バロック」である。同行の I さんが行きつけの店で、店主は未亡人の方で、すべてお一人でまかなっておられるようだ。数年前にご主人を亡くし、お店は続けているが、オーディオ装置の調整はご主人の友達にやってもらっているとのことであった。
中に入ったとたん、根戸小では味わえないようなすばらしい音が鳴っていた。店は小さな喫茶店ではあるが、すべて一人の椅子席になっている。クラシックを鑑賞するには良い環境で、しかも響も良く、音につつまれた感じがして心地よい。
すべてLPレコードのようである。入ったときはケンプの演奏で、バッハ「平均率クラヴィア曲集」が鳴っていた。プチプチノイズがやや目立つ。それでも音は良い。次に聞かせてくれたのが、ホリガー演奏のバッハ「オーボエソナタ」である。オーボエやチェンバロの伴奏も極めて明瞭で響きもすばらしい。これは渋谷の「ライオン」ではとても味わえないだろう。まさにその名のとうり、バロックからモーツァルトあたりまでを聴くには最高かもしれない。
次に行った店は荻窪にある「ミニヨン」である。ここは普通の喫茶店のようにテーブルを囲むような席もあって、店内も明るくスペースも広い。「どうぞクラシックを聴いて下さい」というような押し付けがましさはなく、お客さんたちの会話も聞こえる。気楽にコーヒーを飲んで読書しながら音楽を聴いてもよいような雰囲気である。やはり、室内楽がピッタリかもしれない。すべてLPレコードのようであった。
次の阿佐ヶ谷は私が学生時代に住んでいたところである。しかし多分、そのあと一度も降りたことすらない。つい、昔の下宿に立ち寄ってみたい衝動にかられた。
名曲喫茶の名は「ヴィオロン」である。駅から7~8分くらいの、住宅街の中にあるような店だった。中に入ってびっくりしたのは、一見、座席が無いのではないかと思うようにゴチャゴチャといろんなものが置いてある。お客さんがその中に座っていて、何人の客が入っているのか判断が付かないような雰囲気である。スピーカーは壁に埋め込んであるようだが、結構大きい。
演奏していた曲はこんな小さなお店では考えにくいが、なんと、マーラーの第5シンフォニーである。演奏はバーンスタイン指揮のニューヨークフィルで、LPレコードである。店内のゴチャゴチャも計算ずくで置いてあるのかと思うほどすばらしい音がする。マーラーの耽美的なメロディと退廃的な情感が見事に響いていた。コーヒー代が350円と安いのにも驚いた。
阿佐ヶ谷を出て、祝日の夕方の混雑の中を渋谷に向かった。渋谷駅に下りたとたん、人ごみの渦の中に巻き込まれながら、道玄坂の途中まで行き、右の路地に入って、「ライオン」にやっとたどり着いた。
「ライオン」は馴染みの店であるが、祝日の食事前の時間で、混んでいた。二階席であの「どでかい」スピーカーの音を聴いた。入ったとき鳴っていた曲はクレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のブルックナー第5シンフォニーである。「ライオン」でもブルックナーのような大曲を聴くことは少ない。音量が大きいだけで大雑把な感じがした。
次も、お客さんのリクエストに応えての演奏だが、エルガーの「エニグマ変奏曲」をトスカニーニ指揮、BBC交響楽団という古い録音で聴いた。さきほどのブルックナーに比べるととても良い演奏である。これはCDを買って自分の家でも聴いてみたい曲である。モノーラルだが、「ライオン」のシステムに合った曲かもしれない。
午後6時になるとすっかり、暗くなっていた。幹事の Y さんの馴染みの日本料理屋に行って、大反省会をして、一日のスケジュールを終えた。
四つの店を廻ってみたが、名曲喫茶はクラシックを鑑賞するには良い場所である。毎日でも行きたいようなところだ。中央線沿線に住んでいる人たちが羨ましい。こういうお店が中央線沿線に集中しているのは、この沿線には昔からの文化が未だに息づいている証拠なのかもしれない。我孫子にも昔は文化人がたくさん住んでいた時代があった。ただ、それは昔の話であって、現代まで引き継がれていないのが残念である。
以下、幹事の Y さんがまとめて下さった。各店のオーディオシステムのデータである。
旅に出て、なんとなく得したような気がするときがある。一つは思いもかけない美しい風景や場所に遭遇したときである。もう一つは、期待以上にすばらしい旅館に、ゆっくりと泊まることができたときである。
今年は春から夏にかけて、家の改築で行けなかったが、例年は、少なくとも2ヶ月に一度くらいは温泉に泊まる。いつも女房を乗せて車で行くので、それほど遠いところには行けない。せいぜい関東周辺である。
20日の夜、湯河原温泉に一泊した。朝は早めに出たので、湯河原にはお昼に着いた。予約していた旅館のチェックインが3時で昼食をとっても、時間をもてあましてしまう。湯河原の公園もまだ紅葉の時期ではないので、真鶴半島に行くことにした。車で行くとすぐである。カーナビを頼りにして、林の中の半島周遊道路を半島の突端まで車を走らせた。行き止まりに大きな駐車場があって、芝生を敷き詰めた広くてきれいな公園にたどりついた。
車から降りてみると、湯河原ではとても寒かったのに、その公園の中はまるで温室に入ったように暖かい。公園の中は椰子の木や棕櫚、蘇鉄、名は知らないが、大きなアロエみたいな樹木が生えている。海がすぐ下に見える高台になっていた。日差しもあり、海からの風が吹いてくるので、暖かいのだろう。
他には人がいない。広い芝生の中をのんびりと散歩した。空にはとんびが飛んでいて、すこぶるのんびりした気分になった。かなたに真鶴岬と三ツ石が見える。いつもは熱海から見る初島も近くに見える。公園の名前を確かめたら、お林展望公園(おはやしてんぼうこうえん)と書いてあった。 喫茶室がある管理棟の人に聞いたら、ここは平成17年にできたとのことで、その前はサボテンランドというのがあったらしい。夏には、ハワイアンダンス大会もひらかれるという。
この公園から、下のほうに降りて行ったら、真鶴海岸に出るようだ。以前、三ツ石にも行ったことがあるので今回は止めて、宿に戻ることにした。失敗したと思ったのは、昼食を湯河原ではなく、真鶴の新鮮な刺身を食するべきだったことである。町営の「魚座」という店がある。
湯河原の宿は「ホテル東横」という。私が所属している健康保険組合の契約保養所である。この旅館は、改築してまだ10年もたっていないという。部屋も広くて綺麗で、設備も整っていた。大きい窓からは紅葉しかかりの奥湯河原の景色が全面に見える。
得した気分になるのは、お客が少なくて、広いお風呂を一人で占有できるときである。今回も、三種類の風呂がすべてそういう状態だった。部屋についている風呂も温泉でタイル張りの風呂であった。
翌日は、箱根を周って帰ったが、芦ノ湖畔の紅葉が鮮やかに色づいていて、気持ちの良いドライブが出来た。
戦国原を通って小田原へ下り、小田原城に寄り、その前でそばを食べて、一路東京へ向かった。
今年のNHK音楽祭は「華麗なるオペラ・バレエ音楽の世界」と題して、オペラやバレエ音楽を特集している。昨年はモーツァルト生誕250年を記念して、モーツァルト・イヤーと言われただけに、NHK音楽祭も「体感!モーツァルト」だった。モーツァルトを得意とするロジャー・ノリントン、ニコラウス・アーノンクールといった、古楽奏法の指揮者が来日し、クラシック音楽界の話題となった。
私は、昨年は、ノリントン指揮のNHK交響楽団による、モーツァルトをいわゆるノン・ヴィブラート奏法で聴いて、N響のすごさを体感した。
今年はどれにしようかと迷ったが、オペラやバレエ音楽を得意とするオーケストラとして、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団とワレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場管弦楽団が来日、演奏する。
プログラムの内容、指揮者とオーケストラの組み合わせで、やはりゲルギエフのほうが魅力がある。
ずいぶん前に予約して、チケットを購入したので、SS席が取れた。実際にNHKホールは満席になっていた。
プログラムの内容はすべてバレエ音楽で、順にチャイコフスキー「白鳥の湖」、プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、最後にストラヴィンスキー「春の祭典」である。すべてロシアの作曲者だ。
印象からすると、最高にすばらしかったのは「ロメオとジュリエット」だった。ゲルギエフが最も得意とする作曲家のプロコフィエフであり、根拠地のサンクトペテルブルグではバレエのための演奏も日常的に行っているのであろう。
この曲は第3番まである組曲として演奏されることも多いが、1番、2番の中から7曲が演奏された。この演奏はさすがと思わせる、なんともすばらしい演奏であった。ゲルギエフとオーケストラの熱の入れ方が直接伝わってきたと云っても良い。
ゲルギエフは見かけによらず、とても繊細な演奏をする。「白鳥の湖」ではその繊細さがよく表われていた。しばしば聴く音楽ではあるが、やはり、生演奏の良さを堪能できた。
オーケストラは「春の祭典」で100名を超える大編成になった。残念なのは「春の祭典」の響が良くない。マリインスキー劇場のオーケストラがNHKホールに慣れていないのだと思う。オーケストラのメンバーは懸命に演奏するが、会場がまるで駄目なのだ。
「春の祭典」は演奏用バレエ音楽としては最高傑作に属すると思うが、不協和音が多いという音楽の特性が演奏会場を選んでしまう。
今回はSS席の真ん中よりほぼ右よりだったが、全く音が響かない。去年は良い席が取れず、2階の後ろの壁の近くだったが、音の響はそちらの方が良かった。
NHKホールは、この前のサントリーホールに比べると、全く駄目なホールだと思う。歌謡曲とか漫才なんかのようにスピーカーを通すのとは全く違う生演奏をNHKホールの良い席で聴くものではない。SS席は聴くためではなく、ステージの上を観るための席なのだ。あのホールに海外のオーケストラを招くのは日本の恥である。去年聴いたノリントンのモーツァルトはN響だったから良かったと思う。彼らはあのホールに慣れていてそれなりの音を出すように頑張っているのだと思った。
この記事をブログにアップするのが遅れたのは、NHKでの放送を聴いてから、それとの比較も入れて書こうと思ったからである。NHKの本業は放送することであり、放送では最高の音質になっているかもしれないという期待があった。放送は5.1チャネルで聴いたが、NHKホールの悪さがそれほど目立たないだけだった。
先週、割烹「きくすい」へ行った。このときの話を書こうと思っていたが、それはまたの話にする。
前に書いた「紅葉狩り」を書いているとき、観世流の謡本を読んでいると、「恥ずかしながらも袂に縋り(たもとにすがり)留むれば、・・・・・、所は山路の菊の酒なにかは苦しかるべき・・・・・」という謡が出てくる。紅葉に袂にすがられて、維茂が引き返して酒宴に加わる場である。ここで、はて、「菊の酒」とはいかなる酒かと訳注を見れば「菊水の酒」とある。
「菊水」については、広辞苑を調べると、中国の故事で「ある川の崖にある菊の露が川にしたたり落ちて、その水を飲めば長生きする」という⇒菊慈童(きくじどう)とある。もう一つは「紋所の名、楠木氏の家紋として名高い」となっている。確かに楠木正成の家紋や旗印は菊水の紋である。
古語辞典を見てみると、
きくすゐ[菊水]----「菊のしたみづ」。菊の下を流れる水、これを飲めば長生きするという。
いずれにせよ、菊の花を浸した酒を飲めば長生きをするという言い伝えから、重陽の節句(旧暦9月9日:菊の節句)に菊酒を飲むことと深く関係しているようだ。
「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 芭蕉
「山川の菊のしたみづいかなれば ながれて人の老いをせくらむ」 新古今和歌集717 藤原興風
など、数多くの歌が残っている。
謡曲「紅葉狩」に出てきた「菊の酒」は山中で飲んだ酒で中国の故事「菊慈童」に例えており、七五調の韻を踏むために、「菊の酒」としたものと思われる。
「菊水」の出てくる「菊慈童」というのは「紅葉狩」と同じく謡曲である。能の流派によっては「枕慈童」とも云っている。
「菊慈童」は謡曲としては短い謡で1000文字程度である。是非とも原文を読んで謡曲の雰囲気をあじわっていただきたい。観世流の謡を要約すると以下のようなものである。
『酈縣山(れっけんざん)という山の麓から薬水が涌き出たという噂を聞きつけた魏の文帝は、臣下を遣わし、その源を見てくるよう命じた。
勅命を受けた臣下が山に入ると山奥に庵があり、中から異様な姿の童子が現れた。
このような狐狼野干(ころうやかん)の住むようなところに何者かと問うと、周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童だと答えた。周の時代といえば、魏よりも数代以上も前になる。七百年も昔の者がどうして今まで生きているのかと怪しむと、慈童は却ってその事実に驚く。この山に配流となった身であったが、穆王より賜わった枕には二句の偈(げ:韻文の形で記した経文)がしるされており、その偈を菊の葉に書き写したところ、その葉に置く露が滴り流れて、不老不死の霊薬となった。その水を飲みつづけていたため、七百歳を生きていると云う。
慈童は菊水の流れを汲み、勅使に勧め、自らも飲みはじめる。菊水はいかに飲んでも尽きない酒で、やがて酔い伏してしまうが、目覚めた時、七百歳の寿命を文帝に捧げると、また仙家へと帰っていった。』
この「菊慈童」という謡曲の題材は「太平記」巻13「龍馬進奏の事」に由ったもので、太平記の中では次のように記述されている。
『昔、周の穆王のとき、穆王は8頭の天馬を持っていた。王はこれらの馬に乗って、あらゆる所に出かけた。そして、あるとき、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)で法華を説く釈迦に会うことが出来た。穆王は仏の道に深く帰依して、釈迦より八句の偈(げ)を授けられた。このことはずっと王の心の中に秘して、世に伝えることはなかった。
この頃、穆王は慈童という童子を寵愛し常に傍らに侍らせていた。
あるとき、穆王が留守のときに、慈童が誤って王の枕の上を跨いでしまった。群臣が合議して「このような罪は決して浅くはない。本来ならば死罪にあたいするが、誤ってしたことであるから、流罪とする」と決定して、王に奏上した。王はやむなく慈童を酈縣山に流した。この酈縣山は都より300里、山深くして鳥も鳴かない。雲が蔽い、虎狼が群生するような所で、この山に入った者が生きて帰ったことはないと云われていた。
穆王は慈童を哀れに思い、釈尊より授けられた八句の偈(げ)のうち普門品(ふもんぼん)にある二句の偈を、ひそかに慈童に授け、「毎朝、十方を一礼して、この経文を唱えなさい」と教えた。
慈童は酈縣山の深山幽谷に流されるが、王の言い付けを守り、毎朝、授けられた経文を唱えるようになった。また、もし、忘れるようなことがあってはならないと思い、傍らにあった菊の葉にこの経文を書き付けておいた。
あとで、この菊の葉に置いた露が、わずかに落ち、流れる谷の水に滴って、その水がすべて天の霊薬と変った。慈童が喉が渇いて、その水を飲んでみると、味は甘露のごとく、何物よりも美味しかった。さらに天人が花を捧げに来、鬼神が手を束ねて奉仕するようになった。かくして虎狼悪獣の恐れも無くなり、慈童は羽が生えて仙人に変った。
加えて、この谷の水が下流に流れ、そのあたりに住む三百余りの家々の住民たちまで病が治り、不老不死と云われるまで長寿となった。
その後、時代が代わり、八百数余年後も慈童はなお少年そのままの姿を保ち、老いることもなかった。そして、魏の文帝のときに彭祖(ほうそ)と名を替えて、この術を文帝に授けた。文帝はこれを受けて菊花の盃(さかづき)を伝えて、万年の寿を祝った。今の重陽の宴はこの故事に由来している。』
「菊水」というのは新潟の酒にもあるし、京都の祇園祭に使われる鉾にも「菊水鉾」というのがある。いずれも、この菊慈童の話を由来としている。
根戸エンジョイクラブの皆さんと一緒に、紅葉を見に妙義山へハイキングに行った。
妙義山は標高は高くない。筑波山より低く856mでしかない。昨年秋のハイキングで登った奥日光の高山が1668mだから、本当の低山である。だが奇岩怪石に富み、険峻な岩山の尾根を縦断するのは北アルプスの穂高を登るより危険だと言われている。
最も一般的なコースと言われる石門めぐりコースでさえ、クサリをたよりに登らなければならない。
今回は紅葉見物が目的なので、中之岳神社から「関東ふれあいの道」をたどって妙義神社までのハイキングコースを歩くことになった。体力的には昨年の高山より楽であったが、岩だらけの道や狭いはしごがなどがあって、危険な場所も多かった。私はビデオ撮影をやったので、みんなの前に行っては撮影を始め、通り過ぎるまで撮影して、また追い越して先頭に行くの繰り返しだった。健康で、体重が軽いことの有難さを味わった一日だった。
紅葉はやや早かったのかもしれないが、近所の皆さんと一緒にハイキングをするのも健康的で楽しいものである。
行きのバスの中で、紅葉を見るのを何故、「紅葉狩り」というのだろう?という質問がでた。「狩り」というのは鹿狩りとかイノシシ狩りとかの狩猟か、いちご狩りやみかん狩り、きのこ狩りなどの実やきのこを採ってくることに使う。なんで紅葉狩りというのか素直な疑問になる。
ここで思い浮かんだのが、内田康夫氏の作になる推理小説「戸隠伝説殺人事件」であった。この小説の中に、「紅葉狩」という謡曲が登場する。さらにこの謡曲のもととなるのが「戸隠伝説」である。この話を絡めて、何十年も前の戦争中にあった誰も知らない陰湿な事件がおおもととなって連続殺人事件が起こるという筋書きである。
この小説の話はここまでとして、謡曲「紅葉狩」というのは
『ある山で、上臈らしい女が侍女たちとともに木陰に幕を打ちまわして、紅葉狩りの酒宴をしていると、従者を連れて鹿狩りに来た平維茂(たいらのこれもち)が通りかかり、山中での女たちだけの紅葉狩りを不審には思ったが、興を妨げまいとの心遣いから、馬を下り、道を変えて、静かに通り過ぎようとすると、上臈は維茂を引き留めて酒宴の仲間に誘い入れる。美人の酌に思わず盃を重ね、うっとりとして、終に維茂が酔い臥してしまうと、女たちは、そのよく寝入ったのを見届けて姿を消した。やがて、維茂の夢の中に神のお告げがあり、それに驚いて目を覚ますと、今までの女たちは恐ろしい鬼の本体を現して維茂を襲ってきた。然し、維茂は少しも騒がず、八幡大菩薩を念じながら立ち向かい、遂に鬼を討ち平らげる。』(「観世流初心謡本」より引用)
という単純なストーリーである。謡曲の中ではそれだけだが、ここから、『紅葉の美しさを愛でて山を探索したり、宴席を設けたりすることを「紅葉狩り」というようになった』とバスの中で説明した。
この鬼女「紅葉(もみじ)」について、戸隠の鬼無里(きなさ)に伝わる「紅葉伝説」というのがある。
◇美貌と才知に恵まれた姫の末路
平安の昔のことです。承平二年奥州の会津に生まれた少女呉羽(くれは)は子のなかった夫婦が魔王に願って生まれたためか輝く美貌と才知に恵まれて育ちました。やがて紅葉と名を改めた彼女は、両親と共に京の都に上り美しい琴の名手として都中の評判になり、源経基公の寵愛を受けるようになりました。
しかし紅葉は正妻を呪術で除こうとして事が露見し信州・戸隠山へ流されてしまいますが、都への思いが断ち難く配下を集めて力を貯えます。これを聞いた朝廷は、平維茂を追討に差し向けますが住処もわからず、神に祈って矢を放った維茂は落ちた方角に進みます。待ち構えた紅葉たちは美しく装って毒の酒をすすめたところ維茂に見破られ、鬼女の正体を現したところを討たれて果てました。……戸隠では、紅葉ゆかりの地が数多く残されています。
(以上、「紅葉伝説」は戸隠・鬼無里のホームページより引用)
妙義山ハイキングは好天にも恵まれて、無事、妙義山神社に着いた。残念ながら妙義山神社は修復中で日光東照宮に似た立派な社を見ることができなかった。その近くの日帰り温泉でゆっくり風呂に入り、お酒を飲んで帰った。
この文章を書きながら、戸隠伝説のある戸隠、鬼無里のような伝説の里を訪ねるのも良いなと思った。その前に充分な下調べをして、課題を持って訪ねるとさらに面白いにちがいない。