柳川から、西鉄電車で久留米に行き、駅前のビジネスホテルに宿泊した。久留米は福岡よりホテル代も安いし、とんこつラーメンも本場物が味わえる。九州のラーメンはほとんどがとんこつラーメンなのだが、久留米が発祥の地だといわれている。
翌日、大宰府に行き、まずは天満宮にお参りした。このシーズンはまさに受験のお客で一杯である。天満宮は早々に切り上げて、すぐ近くの光明禅寺に行ってみた。天満宮は小さい頃から何度も参っているが、すぐ近くにあるこのお寺は初めてだ。お参り客はほとんど無く、あたり一面が静かである。寺の境内に入ると、枯山水の庭が綺麗に手入れされていた。さらに、堂内に上がって裏の縁側に出ると、白砂と苔のコントラストが美しい大きな庭を見ることができた。常緑樹の緑と枯れ枝との対比もバランスがとれている。この寺は鎌倉中期に建立された禅寺で、苔寺とも呼ばれている。ひっそりとした冬のたたずまいも良いが、別の季節、とくに紅葉のシーズンはすばらしいようだ。
光明禅寺を後にして、九州国立博物館に行った。最近出来た博物館で、建物も新しい。特別展として、九州、沖縄の作家による工芸展をやっていた。有田焼や唐津焼に代表される九州の陶芸や、博多織、佐賀錦、更紗、沖縄の紅型・芭蕉布などの染織、博多人形に代表される陶製人形、大分の竹工芸など、現代作家の作品が一堂に会して展示されていた。多くの人間国宝の作品も含まれ、日展で見る工芸品とくらべると地道ではあるが、まさにプロの作品である。
遅い昼食になったが、西鉄大宰府の駅前に何軒も並んでいる手打ち蕎麦とうどんの店の一軒に入った。九州で手打ち蕎麦が食べられるとは予想だにしていなかったが、手打ち蕎麦も手打ちうどんもともに美味しかった。店の人に九州で蕎麦が美味しいとは思わなかったと云うと、ここは全国区ですからという返事がそっけなく返って来た。つい、なるほどと思ってしまった。
昼食を済ませて、西鉄電車で二日市に行った。前から二日市温泉には入ってみたいと思っていた。観光案内所で聞いたところ、二つの日帰り温泉があるという。バスでそこまで行くと、御前湯が休日閉店で、博多湯は随分混んでいた。ロッカーもほとんどが詰まっていて、温泉も芋の子を洗うように混んでいた。博多湯は掛け流しの温泉で、ここが開いていて良かった。温泉のお湯そのものは滑らかで心地よく、長く入っていても湯中りもせず、気持ち良い。お風呂を出て、二階にある休憩室でゆっくりと昼寝をしたあと、バスでJR二日市駅に向った。この日は福岡に住んでいる姉の家に泊めてもらった。
翌日は福岡で過ごし、百道の福岡市博物館や福岡タワーを観て、夜8時板付発の便で羽田に帰った。
今回の旅行は4泊5日で福岡、佐賀、久留米のビジネスホテルに泊まり、最後の夜だけ姉の家にやっかいになった。一泊ホテル付きの往復航空券が17800円で、東京から博多までの新幹線片道料金より安い。確かに格安ではあるが、一人旅でビジネスホテルのシングルベッドだとやや割高になる。それでも、最も高いホテルが4000円、ホテル代トータルで1万円以内で済んだ。しかも、どのホテルでも朝食やコーヒーサービスが付いていた。
親戚や友達と夕食をともにすることが出来、寂しい思いをすることもなく、マイペースの一人旅を楽しむことができた。
佐賀に一泊して、翌日、バスで柳川に向った。私が佐賀に住んでいる頃は、佐賀線といって、佐賀から福岡県の瀬高まで国鉄が通っていた。佐賀線が廃止されてからは、柳川までバスが頻繁に通っている。途中、筑後川に架かっている昇開橋を見ることができる。
1時間ほどで西鉄柳川駅に着いた。今回の4泊5日の旅で最も期待していた場所である。中でも川下りと鰻のせいろ蒸しを食べることが目的といってもよい。
西鉄柳川駅に着いてすぐ、観光案内所に立寄り、川下りの乗船所の場所を聞いて、一番近い乗船所で川下りのどんこ舟に乗ることにした。すぐ前に一艘が出たばかりで、「お客さんが集まるまで待って下さい」と云われ、待合室で待っていると2組の若いカップルが入ってきた。乗船所の前に一艘の舟が泊まっていて、ひな壇とたくさんのまりや人形、布で作った花などがぶら下がって飾ってあった。一月だというのにもう雛飾りなのかと思った。
私が着いて、30分程の時間が経ったので、3組の客を乗せて、舟が出た。舟の中にはコタツがあって、暖かくなっている。天気も良く、気分の良い川下りが出来そうである。川といってもほとんど流れがない。堀に近い状態だ。約1時間かかるという。川辺にはしだれ柳の木が植えられていてのどかな景色が続く。舟はたくさんの橋をくぐって船頭さんの艪漕ぎで進んで行く。艪といっても竹ざおである。橋の下にくると船頭さんだけが前に屈んで通る。水かさが多いとお客も前に屈まなければならないようだ。船頭さんがいろんなお話をしてくれ、北原白秋の歌まで歌う。それを聞きながらゆったりとした一時間を過ごした。柳川藩の藩主別邸であった、「御花」の前の下船場で舟を降りて、まずは鰻の蒸篭蒸しを食べようと思い、その元祖と云われている「本吉屋」の支店に入った。普通のうな重に近いが、タレをかけてさらに蒸すようだ。やや味が濃いかなとおもった。以前、鰻が大きくて、厚みがあると聞いていたが、それほどのボリュームではない。
鰻の蒸篭蒸しを食べて、これで目的は果たしたと思い、あとは足のおもむくままに歩くことにした。
船頭さんから柳川の名物、雛飾りのことを聞いていたので、「かんぽの宿柳川」に立ち寄った。ここの雛飾りが最高で、この時期に、これを見過ごしては柳川に来た甲斐がないほどだそうだ。たしかにこれほどきらびやかな雛飾りは見たことがない。雛壇だけでなく、つるし雛「さげもん」といわれる、紐で吊るした毬や人形、花などの飾り物がきれいだ。雛壇のそばの人形も可愛くて、何枚もの写真を撮った。伊豆稲取の雛の「吊るし飾り」と山形県酒田の吊るし雛「傘福」とともに三大吊るし雛と云うそうだ。そう云えば、稲取の温泉宿で見たような気もする。
簡保の宿を出て、左にそれ、前の大きな堀が川のように狭まったところに架かっている橋を渡り、「御花」の邸内に入った。「御花」は私が小さい頃に行った経験がある。剣道の試合で柳川に来たときだったような気がする。邸内は昔の柳川藩主が使っていた和風の別邸と明治以降に出来た洋館があり、松涛苑と呼ばれる庭が美しい。ここは今でも結婚式や披露宴などに使われている。
「御花」を出て、舟で来た川の岸辺にある遊歩道をひとりでのんびりと歩いて、柳川駅に向った。天気も良く、暖かな午後である。この道は、北原白秋が「御花」の近くの生家から伝習館中学校へ通った道で、「白秋道路」と呼ばれている。静かで、歩くのが心地よい。柳川の町で最も印象に残ったのが、この麗らかなひと時である。
久しぶりの帰郷である。福岡空港に午後3時頃に着いた。空港には従兄弟が迎えに来てくれていた。彼とは45年ぶりの再会である。最後に会ったとき、彼はまだ小学生で、叔母の家に行くと、いつも海や川で遊んであげた。その日は叔母の家でご馳走になり、車で送ってもらい、薬院のホテルに泊まった。
翌日、バスで佐賀へ向った。佐賀は私の生まれ育った町である。バスを降りて、駅前通りを真直ぐに南に下った。この通りには小さな事務所や金融機関の支店が多く、喫茶店やレストランが点在している。昔からある懐かしい商店も目に付いた。
さらに下って、県庁前に行く通りから左にそれ、昔の佐賀の中心となっていた商店街に入った。どこの町にもある「・・・銀座」と云われた街である。天気の良い昼前というのに、アーケードがあって商店街全体が気味悪いほど薄暗くなっている。人通りが無く、ほとんどの店がシャッターを下ろし明かりも無い。高校生の頃よく通った佐賀では最も大きな本屋さんがあった。そこだけは開いていたが、ガラス戸で入りにくくなっている。中を覘くと、店員さんが一人カウンターに立っていて、お客はひとりもいない。
昔は、この商店街から松原神社の前あたりまでアーケードのある商店街が続いていた。おもちゃ屋さんや、カバン屋さん、呉服屋さん、メガネ屋さん、お菓子屋さんなど、多くの店が並び、賑わっていた。
数年前まであった、「窓の梅」という食料品店も無くなっている。昔、デパートのあった場所には、奇妙なことに、昭和30年代に上映された映画の、ペンキで描かれた大きな看板がいくつか掲げられていた。その前に乾物のようなものを売っている、雨戸一枚程度の露店があった。お客はだれもいない。この商店街を通る人がまるでいないのである。
佐賀には福岡から長崎に行く国道34号線が走っていて、その沿線に官公庁が並び、佐賀神社や公会堂、図書館、体育館などの文化施設もその道路沿いにあった。通称、貫通道路と云っていたが、福岡や大牟田から長崎、佐世保に行く大きな道路はその道しかなく、まさに佐賀市を貫通していた。この道路沿いの店もほとんどがシャッターを閉めているか、保険会社の支店や小さな事務所のようなものに変っていた。私が生まれ育った家も、その道路に面し、父が商売をやっていた。近所の店もほとんどが無くなっていたが、隣の仏具屋さん、数軒先の衣料品店、薬局、それに向いにあったガソリンスタンドだけが残っていた。
昭和40年頃のエネルギー革命とその後の自動車の普及によって、この貫通道路が手狭になり、市の北辺と南部にバイパスが出来たのが、佐賀市のドーナツ化現象のきっかけになった。それまで佐賀市内を通過していた車が旧市街地を通らなくなったのは良いが、それとともに、バイパス沿いの田圃だった土地が開発され、土地価格の安い住宅地に人口が集まるようになった。さらに、大きな駐車場を備えた大型ショッピングモールが出来て、買い物客の足がそこに向うようになってしまった。駐車場のスペースが無く、小さな地域を地権者で分け合うそれまでの商店街は衰退の一路を歩むしか仕方がなかったのだ。
現在の佐賀市の中心街は、城内と呼ばれる佐賀城を囲む内堀の中にあり、官公庁や公共施設、学校などが新しい建物になってそのまま存在している。佐賀城址も、それまであった私が通った小学校が移転し、そのあとに佐賀城本丸歴史館ができて、佐賀観光の中心になりつつある。この歴史館は佐賀鍋島藩の佐賀城本丸御殿を復元した木造建築で私が小学生の頃、「お居の間」と呼んでいた藩主の居室も材料はそのまま使われて再建されている。明治維新後の佐賀の乱で焼け残った「鯱の門」とも調和して佐賀のシンボル的な存在になりそうである。歴史館の隣には県立博物館・美術館が建てられていて、佐賀の歴史や自然、文化を知ることができる。それに、場所としては少し離れているが、今回初めて知った佐賀市歴史民俗館もレトロな雰囲気が残り、写真に撮っておきたい場所である。ここは明治時代に建てられ、その後、見向きもされなかった旧古賀銀行の建物やその近くの古い住居が観光地として公開され、周りの静かな環境とともに別世界に来たような気にさせられる。
佐賀市内には中心となる商店街は無くなったけれど、文化的な中心地が蘇ってきている。私が小さいときからフナ釣りをして親しんだ内堀の周りがきれいに整備され、満々と湛えた堀の水も空の青を映して美しかった。
北欧の凍てつくような寒い夜空を見ていると、静かな中に、冴え渡るように澄み切ったバイオリンの音が聴こえてきた。」と表現したいような、諏訪内晶子のとてつもなくすばらしい演奏を聴くことができた。
今年のNHK音楽祭は12月8日に最後の演奏会が開かれた。毎年、テーマを決めて、そのテーマに合った演奏が行われる。今年は「魅惑のバイオリン、魂のコンチェルト」というテーマで20代から30代のバイオリニストに焦点を当て、バイオリン協奏曲を中心に演奏会が催された。
私はこの最後の演奏会を聴いた。シベリウス作曲の「フィンランディア」と「バイオリン協奏曲ニ短調」、「交響曲第2番ニ長調」という、シベリウスの曲としては最も有名な曲ばかりである。
オーケストラはロンドンの名門、フィルハーモニア管弦楽団、指揮はウラディーミル・アシュケナージ、それにバイオリンソロが今や日本を代表するバイオリニストとなった諏訪内晶子である。
解説の奥田佳道氏によると、12月8日はシベリウスの誕生日だそうで、演奏会にこの日を選んだのは、そのためのようである。昨年はシベリウスの没後50年で多くのCDが発売された。今回の指揮者である、ウラディーミル・アシュケナージの新しいシベリウス交響曲全集も発売されている。
最初の曲「フィンランディア」は1900年に帝政ロシアからの独立を願って作曲された交響詩で、その歌はフィンランドでは第二国家として愛唱されているという。ちなみに、フィンランドの独立記念日は12月6日である。
「フィンランディア」はクラシックファンなら誰でも知っている曲で、演奏会の最初に持って来るのに丁度良い10分足らずの曲である。オーケストラが演奏会場の音響をチェックするのには適度な曲だ。空席の会場でリハーサルをやってはいるが、満席になったら、音の響きがまるで違うからである。聴衆の立場からも最初はまず、会場の響に慣れることが必要になる。そういう意味でこの「フィンランディア」が名演奏とは言いがたかったのも仕方がない。このNHKホールに慣れているはずのアシュケナージが指揮してもオーケストラメンバーにとってはやはり演奏しずらかったと思う。
今回のNHK音楽祭で最も聴きたかったのが、「バイオリン協奏曲ニ短調」である。とくに諏訪内晶子のバイオリンをこの曲を得意とする名門オーケストラと名指揮者をバックにして聴けるという願っても無いチャンスに恵まれたと云える。
この協奏曲はバイオリンソロが多く、独奏者の個性が遺憾無く発揮される曲である。
イントロ部分の弱高音はCDではなかなか聴き取りにくい部分だが、諏訪内の演奏はストレートに私の耳に飛び込んで来た。なんという緊迫感なのだろうと思った。オーケストラも彼女の集中力に釣られる様に引き締まった演奏になった。先ほどの「フィンランディア」の演奏とはまるで違う。第二楽章でのバイオリンの美しい高音、まさにストラデバリウス「ドルフィン」を駆使しての名演奏である。北欧の陰鬱な情景を表わす第二楽章から、一転して第三楽章のリズミカルで燃え盛るような音楽と続く。諏訪内のテクニックと内に秘めた情熱が充分に発揮された演奏である。
この演奏の間、私はすべてを聞き漏らすことの無いほどの緊張感をもって、心地よく酔いしれてしまった。終ったときにふっと、ため息が出てつぶやいた「すばらしい!!」の一言。
指揮者のアシュケナージが諏訪内に対して、御見逸れしましたと言わんばかりに御辞儀をし、握手を求めたのも印象的だった。
アンコール曲として諏訪内が演奏したバッハ「無伴奏バイオリンソナタ第三番のラルゴ」も彼女が得意とする曲らしく、素敵な演奏であった。ここでは最近のスタイルのヴィブラートを押さえ気味にした演奏で耳に心地よい響きである。
従来、このNHKホールの音響の悪さには定評があって、海外から来たオーケストラは随分戸惑うようだが、今回は前から10番目、左寄りのSS席でバイオリン協奏曲を聴くには最適の席だった。もちろんそれを狙って予約した席である。下手にホールが響いてくれるより、バイオリンの響がストレートに耳に入って来て、クリアーに聴こえる。
最後の「交響曲第二番ニ長調」はバイオリン協奏曲で演奏したオーケストラが大編成になり、緊迫感も引き継がれて、引き締まったすばらしい演奏であった。アシュケナージとしては彼の得意とするシベリウスで、彼の本領を発揮した演奏といえよう。
諏訪内晶子は1990年に「チャイコフスキー国際コンクール」で、日本人としては初めて優勝している。しかも、史上最年少であった。彼女の父君が私と同じ会社に勤務されており、この優勝の報をテレビで聞いたとき、一緒にいた同僚と喜び合った思い出もある。今現在、私は彼女の大ファンで、ほとんどのCDを持っている。シベリウスの「バイオリン協奏曲」も2002年録音でオラモ指揮バーミンガム市響と組んで演奏したSACDを聴いているが、今回の演奏は生演奏であることだけでなく、円熟した彼女の実力を充分に出しきった、音楽そのものの質としてもそれをはるかに凌駕したものであった。
11月14日に日展を見に行った。国立新美術館ではピカソ展もやっていたが、そこには入らず、日展の作品鑑賞と写真撮影に専念した。今年は昨年より多くの作品の写真を撮ろうと思って、美しく感じた絵や工芸、彫刻を片っ端からデジカメに収めた。昨年はフェルメール展と同時に開催されていたが、多分、今年のピカソ展も混んでいたのかもしれない。日展はそれほど混んでいることもなく、写真もゆっくりと撮れた。
今年の入選作品でも、毎年出品し入選する方々が多いのか、傾向はよく似ている。洋画では相変わらず衣服やシーツなど質感が緻密に描かれている。一目見ただけで、去年のあの作品を描かれた画家の作品かとすぐに気が付くものも多い。それが、日本画の中でも見ることができる。上掲のスライドショーで羊の絵があるが、これは日本画である。日本画は一般的に緻密な描き方をしないが、直接触ってみたくなるほど、羊毛の質感を表現してしている。
多いのは、ソファやベッドに横たわった女性、舞妓さん、克明に描かれた静物や風景などである。とくに目立ったのが絵の中に楽器類が描かれていることである。音楽ファンの私にとっては喜ばしいかぎりだ。
結局、200枚以上の写真を撮影した。
私は趣味として写真撮影やビデオ撮影をやっているのだが、風景を撮影するときでさえ、実物をカメラのファインダーを通してしか見ていないのではないかと不安を覚えることがある。直に自分の目で見るためにカメラは持って行かない方が良いのではないかと思うことさえある。今回感じたのはやはり、撮影しようと思って、真剣に探すことによって、作品の印象はより強く残るのだということである。ただ漫然と見て廻ると作品の良さは後まで残っていない。
普通は美術館での撮影は禁止されていることが多い。しかし、それは他の美術館から借りてきたものを集めた「・・・展」的なものであって、その美術館の常設作品はカメラ撮影が許可されているのが一般的である。ストロボを焚いたり、シャッター音の大きいカメラで撮影するのを避ければ、どんどん、撮影しても良いように思う。
昨年から日展は国立新美術館で開かれているが、今年は洋画と日本画の展示区画が明確になって、わかりやすくなった。洋画と日本画の区別が作品そのものではわかりにくい現状では親切な配慮だと思う。
東京都美術館で開催されていた頃は、照明も暗く、狭苦しく、しかも上下に展示されていた作品が多かったため、ゆっくりと見て、写真に撮るなどとは考えもしなかったが、昨年から、日展で写真を撮るという楽しみができた。
現在の車に買い替えてはや3年になる。7月21日が車検切れになるが、その前の一ヶ月間に車検をうけなければならない。これまでは車のディーラーかガソリンスタンドに持って行って、車検を受けていたので、6月頃から郵便受けに入っているチラシを集めたり、ディーラーに聞いたりして、料金を見積もってみた。ガソリンスタンドと云っても、実際は車検屋の取次ぎをやるだけのところが多い。車検屋だと、約7万円プラスαで、ディーラーだと10万は越しそうだ。
今回は車を買ってまだ3年しか経っていないし、そんなに多くの距離を走ってもいない。3年前に前の車を売ったとき、業者経由だと事務処理手数料がやたらと高いことがわかっていたので、今回は自分自身で車検センターに車を持ち込み自分で車検を受ける、いわゆるユーザー車検にすることにした。
ユーザー車検だと検査費用は1700円で、あと、自賠責保険、自動車重量税を入れて小型車だと49370円だけで済む。おまけに、車を預ける必要も無く、1時間程度で済んでしまう。といっても、車検屋やディーラーは24ヶ月点検をやってくれるが、それは自分でやらなければならない。24ヶ月点検だけどこかに頼むというのは難しそうだ。
私の場合、運悪く、6月下旬にバドミントン大会で腰を痛めてしまい、ホイールを外してブレーキの点検もままならない。結局24ヶ月点検は車検後に自分でやることにして、野田の車検センターに行き、何のトラブルも無く一発で合格した。
いつも乗っている車である。本来は日常点検が義務付けられている。エンジンオイルの点検やタイヤの空気圧、バッテリー液などは常日頃、チェックしておくべきものだが、買ったばかりの車だと、なんとなく疎かになってしまう。
年に一度くらい、ディーラーで格安でオイル交換や点検を一緒にやってくれるので、それに頼ってしまっていた。
以前からユーザー車検という手段は知っていたが、なんとなく面倒で、自分でやるのは初めてだ。
まずは車検というものがどういうものか、インターネットでいろんなサイトを調べてみた。「ユーザー車検」で検索するとたくさんのサイトがあって、事細かく丁寧に書いてある。費用の見積もり、必要書類、事務手続きの書式やそのやり方は勿論、実際の車検ラインの流れや検査を受けるときの要領も綿密に知ることができる。
細かいことはそのようなサイトに譲るとして、重要なことは以下の事項である。
◇ 事前に車検センターに行って、必要書類を入手するとともに、車検ラインを見学しておく。
◇ 必要書類はすべて記入しておく。自賠責保険も更新しておく。
◇ 自動車検査インターネットシステムで予約する。できるだけ、早い時間を予約する。雨が降りそうな日は避ける。
◇ 車検前日に日常点検をすませ、ホイールキャップの外し方にも慣れておく。
◇ 車検ラインでは前の車の様子をよく見ておく。窓は検査員の言う事が良く聞こえるように開けておく。
◇ 電光掲示板の指示に従って車を操作する。
あとは度胸だけ。多少失敗しても、やり直せばよい。当日なら、何度でも検査を受けることができるし、不合格になった検査だけやり直すこともできる。修理して別の日に受けても検査料1700円を払えばよい。
車検センターに行って気が付いたことは、ユーザー車検を初めて受けるという感じの人をあまり見かけないことである。知人に聞いても、自分で車検センターに持って行って車検を受けるというのは聞いたことがない。
車検ラインに並んでいる車を運転している人はプロのような人ばかりである。みんな、バインダーに書類をはさんでいる。ユーザー車検の窓口にバインダーを持って並んでいるプロらしい人に、バインダーが必要かと聞いたら、「関係ないよ」と言っていた。
平成7年に「道路運送車両法」が改正されて、それまで、「車検を受ける前に24ヶ月点検整備をやっておかねばならない」ということから、「点検整備は車検後に実施してもよい」ということに変って、車検はユーザー自身で受けられそうだと随分話題になった。ガソリンスタンドやタイヤ屋さん等でも「ユーザー車検代行」という看板を見ることが多くなった。車の所有者の代わりに別の人が受けても構わない。例えば、私が友人の車の車検を受けても構わないのだ。
では、なぜユーザー車検を受ける人が少ないのだろうかと、自分の過去を振り返って考えてみた。
まず、点検整備を車検の前にやらねばならないし、点検整備には分解整備が必要だと勘違いしている人が多いということだ。分解整備をやるためには国の認証が必要であるが、24ヶ月点検には分解整備は必要ない。
もう一つは車検を業者に頼んでも、プラス2万円程度で24ヶ月点検もやってくれるので、それほど高くはない。ただ、よく検討して、業者を選ぶ必要がある。私も安いところに頼んで、純正オイルではなく、安いミッションオイルに入れ替えられて、ギヤの入りが悪くなったこともある。次の車検ではディーラーに頼んで12万円以上も取られた。しかも、一週間も車を使えず、預けた時や、次に引き取りに行くのに送迎さえなかった。
ユーザー車検が少ないもう一つの理由は車検の時期になると、ディーラーから担当営業さんが来るので、ついその口車に乗ってしまう。ユーザー車検を受けたいとでも云おうものなら、まずは素人では無理だと言われるだろう。脅かされると、なんとなく怖くなって、無難なところに頼んでしまう。
ユーザー車検を自分で体験して感じたことは、それが実に簡単で、何でもない事だったことだ。まさに「試しにやってみたら」の典型的な例である。検査員だって素人っぽい人には親切である。
何と言っても良いのは自分の車を自分で点検し、自分で検査を受けると、車に対する愛着が大きくなり、車を大事に運転するようになることである。ちょうど初めて車を持ったときと同じような感じになる。
この文章を書き終えたのが、9月末になってしまった。忙しかったことと、腰を痛めてしばらく怖かったので24ヶ月点検を9月にやったからである。ついでにタイヤのローテイションもやった。24ヶ月点検を自分でやってみるとさらに車が自分の所有物であることが実感でき愛着感もさらに増える。エンジンオイルとブレーキフルードもカー用品店で交換してもらった。車を長持ちさせ、省燃費のためにはエンジンオイルも良いものを使うべきだ。今回は化学合成油100%のオイルを使い、エレメント交換、フラッシングもやってもらった。多少高くついたが、エンジン音が低下し、乗り心地もよくなった。
3月1日に公開となり、話題になっていた映画「明日への遺言」が、近くの映画館では今日が最終上映となるので、朝食を早めに済ませて見に行った。つくばエクスプレスたが開通してできた柏の葉キャンパス駅前の、「ららぽーと柏の葉」内にあるMOVIXというシネプレックスである。
太平洋戦争の末期には、米国海軍はサイパン、グアム、テニアンなどを占領し、日本本土は米軍の制空圏に入った。そして、東京を始めほとんどの都市への無差別爆撃が行われた。それに対して、日本軍は最後のあがきとも云われるような抵抗を試みていた。映画「明日への遺言」は昭和20年5月の名古屋北部への無差別爆撃の最中、日本軍が撃墜したB29から、パラシュートを使って脱出し、日本軍の捕虜となった乗員27名を、斬首刑にしたことで、戦後、B級戦犯として起訴され、軍事裁判にかけられた、岡田資(たすく)陸軍中将の法廷記録映画である。
この映画に登場するシーンはほとんどが、法廷の中と拘置所内である。しかし、上映時間2時間はしっかりと中身が詰まっており、一寸たりとも気を抜ける部分が無いほど充実した内容であった。被告と弁護人、検察官、裁判員の緊迫した審問と堂々たる弁駁(べんばく)は見応えのあるシーンになっていた。
岡田中将は被告人として法廷に臨むにあたって、この裁判を「法争」と位置づけ、戦争には負けたけれども、この裁判では勝ってみせると決意していた。米海軍の行ったB29による無差別爆撃と戦闘機による機銃掃射は、民間人まで殺戮対象とした、国際法違反であることを認めさせようとしたのである。
そして、捕虜を殺戮したのは報復ではなく、国際法に則った処刑であるとし、全責任は東海軍管区司令官として判決を下した自分にあり、刑を執行した部下たちは、その命令に従っただけである。自分はこの裁判でどんな判決を受けても構わないが、部下に対しては刑を軽くしてもらいたいと、嘆願するのであった。
最後には、岡田中将は「市ヶ谷のA級戦犯をはじめ、他のB、C級戦犯の裁判においては、自分たちのように充分に発言する機会は与えられなかった。この点における寛大な処置を感謝したい」と申し述べ、敵味方の差別無く弁護人として弁護に最大の努力をつくすフェザーストン法学博士や検察官として罪を問いただしながら、少しずつ岡田中将に傾いていったバーネット検事、それに真摯に意見を聞いてくれた裁判員たちに感謝の礼を捧げている。
1948年5月に判決が下され、岡田中将は絞首刑を言い渡された。19名の部下に対しては、終身刑から、最も軽いもので10年の懲役を宣告された。後に部下たちの刑は大幅に減刑されている。
この映画で感銘を受けるのは、岡田中将の堂々たる弁駁と、自分に全責任があるとして、部下をかばう軍人らしい態度、フェザーストン博士の献身的な弁護やバーネット検事の同情、裁判員の公平で真摯な態度、それに岡田中将の家族たちの思いやりのある表情である。
この裁判に比べて、東京裁判での公平性の欠如や、東条英機をはじめとしたA級戦犯たちの卑屈さは、それが国民を戦争に駆り立てた責任者の態度かと情けなく思えてならない。潔く刑に従うことをよしとするのは当たり前である。インドのパール判事のように「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」に対して、何故、堂々と論駁しなかったのかと思う。
とくに意識して観たわけではないが、私は最近、大東亜戦争、太平洋戦争に関わる映画やテレビを観ている。2月末に、「母べえ」、3月10日にTBS「シリーズ激動の昭和 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実」、3月17、18日に日本テレビ「東京大空襲」を観た。米軍による日本本土空襲は昭和19年11月に開始されているが、当初はヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によるもので、軍需工場や製油所に対するピンポイント爆撃である。ハンセル准将は無差別爆撃は民間人まで殺戮する非人道的なものであると考えていた。それを手ぬるいとしてハンセルは罷免され、翌年1月に交代したカーチス・E・ルメイ少将は、家屋や鉄道、道路などすべてを焼き尽くす低空飛行で投下する焼夷弾による無差別爆撃を立案し、その最初の候補地として東京の下町が選ばれた。最も被害の大きかったのが昭和20年3月10日の東京大空襲である。死亡者の数は10万人を超えている。二度の爆撃を行っているが、最初の爆撃で避難するであろうという地帯を作って、さらに二度目の爆撃でそこを爆撃している。明らかに大量殺戮を狙った攻撃である。いろんな種類の焼夷弾を使っているが、後にヴェトナム戦争で問題となったクラスター爆弾まで使っている。死亡者の多くが黒焦げになって誰かもわからない死体になり、行方不明者の数が数万人規模まで達しているのがそれを物語っている。広島、長崎の原爆投下による死者は立派な慰霊碑が建てられているが、東京大空襲による死者に対しては、慰霊碑すら建てられていない。これは戦後、米国に対しての批判と取られてはいけないという為政者の卑屈さから来ている。それどころか、大量殺人を犯したカーチス・E・ルメイに対して佐藤栄作内閣は勲一等旭日大綬章まで贈っている。理由は「日本の航空自衛隊を育てた」ということらしい。
戦後まもなく教育を受けた私の年代はフランクリン・ルーズベルト大統領を、ニューディール政策による世界恐慌からの建て直しや、国際連合の設立基盤の構築などを行った偉大な大統領と教わったが、彼こそ、日本を太平洋戦争に駆り立て、日系米国人の強制収容、有色人種、とくに日本人への敵対的差別の第一人者で、親中、親ソの容共主義者であったことを忘れてはならない。ルーズベルトは1945年4月に急死し、副大統領であった凡庸な政治家と云われるトルーマンが大統領に就任するが、もし、ルーズベルトが終戦時に生きていたら、日本はどうなっていたかわからない。ポツダム宣言はトルーマンのもとで、ソ連抜きで書かれている。
映画「明日への遺言」の中で無差別爆撃は国際法違反であるとする岡田中将に対して、バーネット検事は、「処罰された捕虜たちも命令に従って爆撃したのであり、それを命令した者は裁かれるべきだというのか。それが誰だと思うか?」と問いただしている。それに対して、「それを指摘するのは検察側の仕事だ」と答えながら、法廷にかざってあるルーズベルト大統領の写真を見るシーンがある。
1951年のサンフランシスコ講和条約で日米の戦争状態の終結が宣言され、東京裁判でパール判事が指摘した、「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」も、東京大空襲や原爆による広島、長崎への無差別爆撃に対しても、その過誤を問わないことになっている。この条約によって、『歴史』という学問の持つ非合理性、すなわち勝者が常に善であり、敗者が悪であるというぬきさしならぬ不自由さが承認されたのである。
国と国の善悪だけでなく、映画「母べえ」に登場する治安維持法をたてに、ただ戦争に反対するようなことを言ったり、書いたりした人々を投獄した憲兵や特高警察官の罪もすべてチャラになったのだろうか。そういう人たちが戦後になって何もしなかったかのごとくぬくぬくと生きてきたのかと思うと、たまらなく不快感をおぼえてならない。
それとともに、戦前の日本人がやったことをすべて悪として、「南京大虐殺」とか「慰安婦問題」を持ち出して、過剰なまでも自虐的に問題視して正義の味方と云わんばかりに悦ぶ「朝日新聞」のような新聞社の存在も日本国民として、許しがたく思う。
今年の2月に行われた内閣府調査「社会意識に関する世論調査」によると国を愛する気持ちが「強い」と答えた人が57.0%で調査開始以来、過去最高となったと云う。また、社会への貢献意識を「思っている」人も過去最高の69.2%、「個人の利益より国民全体の利益を大切にすべきだ」が51.7%で昨年より4.3ポイント増になっている。これは良い意味での素朴なナショナリズムが向上した証左だと思う。郷土愛などと同じに素直に考え、喜ばしいことである。ナショナリズムのない民族は、いかに文明や経済能力が高くても他民族から軽侮され、“あほう”あつかいにされる。いまや、韓国や中国からいわれのない報復を受けていると見たほうが良い。
きしくも、この文章を書いている4月28日は1952年にサンフランシスコ講和条約が公布された日である。米国によって占領された日本の主権が回復された日である。韓国、中国は未だに、日本の主権を侵して、竹島や尖閣列島の領有権を獲得しようとしている。こういう問題に対して、政府は何事も云えないでいる。
「明日への遺言」は「戦争という歴史は決して忘れてはならないことだが、戦争に負けたからといって決して卑屈になったり自虐的になったりして欲しくない。日本人としての誇りを持って、堂々と主張すべきことは主張せよ。経済的にも文化的にも成熟した国民なのだから。」ということを言っているのだと思う。
毎朝、ウォーキングをしていると季節の変化に敏感になる。今年のソメイヨシノは木によって、開花の時期や花の咲き具合がバラバラになった。寒暖の差が大きくて、暖かい日に一斉に咲いた木と、少し遅く開花した木でずいぶん差があった。ウォーキングコースで毎年、最も開花が早いのが、根戸小学校の南西の角に植わっている大きな木であるが、今年は3月26日に開花した。開花の目安とされる、5~6輪くらいが朝咲いていた。ところがその日が4月の下旬くらいの暖かさで、夜は暖かい雨まで降って、翌日は3歩以上の開花になり、他の木も一斉に花が咲き始めた。
桜の時期になると、なんとなくそわそわする。どこかに花見に行かなければと思うのである。今年は3月31日は朝から雨で、4月1日は風が強かった。雨が降ると花が色あせたりするのではないか、風が強いと花が散るのではないかと、落ち着かない。4月は入学式や会社の年度始めだったりで、花のせいだけではなく、年度代わりという生活の変化も影響するようだ。
「古今集」53 『世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』 在原業平
花が咲く時期は短いが、場所を変えると、結構長い期間、花見をすることができる。去年は家のリフォームで行けなかったが、一昨年は3月の初めに河津ざくらを見に伊豆へ行った。最近は河津だけでなく、伊東あたりでも、河津ざくらを見ることができる。日本列島の南からだんだんソメイヨシノが咲き始め、桜前線は北上していく。4月になると関東あたりが満開になるが、今年は一週間ほど早く、4月1日頃に満開になった。関東の方が九州より早く咲いた。
一昨年は、福島の磐城湯本温泉に行って、勿来の関の桜を見に行った。4月の中旬で満開の桜を見ることができた。さらに遅く4月下旬になって、手賀沼湖畔の水辺の桜が満開になっている。4月はどこかで花見をすることができる。とくに、あわてることはない。
今年はウォーキングをしながらの花見を楽しんだ。柏の利根川沿いにある曙山公園には2回行った。風車前の広い花壇はパンジーがチューリップの芽の間に咲いていて、チューリップとは違うおもむきがあった。昼間は花見客で賑わう曙山公園も静かで、誰もいない桜の写真やビデオも撮影した。
4月6日は風が強く、桜の花が散って、花吹雪になっていた。そろそろ桜の花も終わりになるかも知れない。7日、8日の長雨で花もすっかり散ってしまったと思う。
「古今集」113 『花の色は うつりにけりないたつらに わか身よにふる なかめせしまに』 小野小町
桜の花は日本の国花になっている。アジアの他の国でも咲くが、種類は日本が圧倒的に多いという。日本の春の象徴的な存在で、春を待つ気持ちと桜の開花を重ね合わせて考えるようだ。また、紅葉狩りと同じく、桜狩という言葉があり、いろんな地を訪ねて花を楽しむことを云う。
桜の花はすぐに散ってしまう。散り際の潔さは日本人の美感に合うようだ。「忠臣蔵」で浅野内匠頭が切腹するのも、桜の花が散る時期でなければならない。軍歌でも「「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」とくる。その結果、靖国神社の桜の梢に咲く花になる。さらに、もっと過激な散り方として、戦争末期に開発された「桜花」という特攻兵器があったことだ。これは、戦闘機に魚雷のように装着したエンジンを持つミニ飛行機で、敵の軍艦に向かって搭乗員が誘導しながら攻撃するという代物である。実用化される前に終戦となった。
桜の花が嫌いだという人もいる。花の命は短くて、はかないからだと云う。ずいぶんロマンティックな人だと思う。確かに、そんな気にもなることがある。
「古今集」84 『久方の 光のとけき 春の日に しつ心なく はなの散るらん』 紀友則
戦後の日本占領統治政策のために書かれたルース・ベネディクト著「菊と刀」で、日本人の心理構造を「精神主義」と「集団依存体質」としているが、これは、むしろ「桜」に例えた方が良かったのかもしれない。一斉に咲いて、一斉に潔く散ることを美的に感じる精神構造は日本人特有のものであろう。
難しいことは別にして、桜の花は日本人にとって、昔から異常なまでに愛されている花である。
「山家集」 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ』 西行
記憶というものは極めて曖昧なものである。具体的な事象やそれに伴って感じたことはよく覚えているが、ただ単に何かに心動かされるような、心情的なことはすぐに忘れてしまう。大学在学中だったと思うが、音楽を聴いて、誰かにそのすばらしかったことを、話さざるを得ないほどの感銘を受けたことがある。
それは、ラジオを通して聴いたレフ・オボーリンのピアノ演奏だった。演奏終了後すぐに、従姉妹に電話をかけて、「いまのオボーリンの演奏、聴いた?」と尋ねた。彼女は武蔵野音大でピアノを専攻していて、オボーリンが来日し、渡辺暁雄指揮、日フィルと共演することをよく知っていた。勿論、彼女もその演奏をラジオで聴いていた。二人でその卓越した演奏について語り合ったことを覚えている。その演奏がどのようにすばらしかったかはまるで覚えていない。演奏の良さを言葉で表すことは、直前に聴いた音楽でさえ難しい。いまから調べると、オボーリンが来日演奏したのが1965年10月22日である。オボーリンが来日した頃には、オイストラフと共演したベートーヴェンの「クロイツェル」と「春」が入ったレコードを持っていた。演奏が優れていたのは勿論だが、昔のラジオとは云えども、実況生放送を聴くのと、編集したレコードで聴くのとはずいぶん違ったと思う。
私が、音楽、とくにクラシックを聴くようになったのは、高校時代である。大学に入ってからは、武蔵野音大でピアノを教えていた叔母や音大生の従姉妹たちの影響で、音楽の話をするのは当たり前のようになっていた。いまでも、その従姉妹たちとは兄弟同様のお付き合いをさせてもらっている。もと東響でオーボエ奏者だった旦那もいて、みんなで集まると、飲みながらの音楽談義になってしまう。
私がステレオ装置らしき、アンプやチューナー、レコードプレーヤーを揃えたのは、現在の家を購入してからで、それ以来、たくさんのレコードも買った。でも、あまり高価な装置は持っていない。音楽は、曲の次は演奏で、次が録音、最後に再生装置と思っている。オーディオの雑誌を見ると、高価な装置は評判が良い、安い装置は入門者向けということになっている。私はそういう意味では、いつも入門者だ。お金もないが、家の中のスペースに制約されて、大きいスピーカーなど置けないのである。
現在、私は2セットのオーディオ装置を使っている。メインの装置はリビングにあり、もう一つが書斎にある。メインの装置は1993年頃から、代々、7.1チャネルシステムだ。マルチチャネルにしたのは、コンサートホールで聴く感覚でクラシックを聴きたかったからで、たまたま、アンプを買い換えたいと思って秋葉原に行って見つけたものである。ヤマハが出していた、DSP-2000という、今で云うAVアンプである。メインスピーカーは従来のプリメインアンプに接続し、センタースピーカーやフロントとリアのエフェクトスピーカー、サブウーハーを加えて、実際のコンサートホールの音場を作り出すという代物である。スピーカーはたくさん要るが、大きいスピーカーは必要ない。そのあと、98年にメインアンプも、スピーカーもほとんどを入れ替え、ヤマハのDSP-A1に替えている。それと同時にスピーカーはフロントをハーベスHL-P3ESに替えた。BBCモニターのLS3/5Aを改良してクラシックを中心とした音楽用にアップグレイドしたものである。このスピーカーは、フロントスピーカーとしてクラシックを聴くには最適であると思う。現在は、ヤマハのDSP-AX4600を使っている。A1に比べると音場の数は少ないが、オーディオ用AVアンプとして設計されたもので、静ひつ感はすばらしい。DVDプレーヤーも同時にユニバーサルプレーヤーに買い換えたが、ほとんどCDプレーヤーとして使っている。
最近はマルチチャネルシステムもオーディオファンから見直されつつあるようだが、数年前まではピュアオーディオファンからはAVアンプでオーディオを聴くのは邪道のように云われた。もちろん、家電量販店なんかで、テレビの前に置いてあるサラウンドシステムはやはり5.1チャネルの映画を見るためのもので、音楽を聴くには不満を感じるかもしれない。しかし、良い音で、音楽を聴くに耐えられるピュアオーディオ用のスピーカーとAVアンプを使えば、大型スピーカーにも負けないシステムになると思う。。マルチチャネルで音楽を聴くメリットは、コンサートホールで音楽を聴いているのと同じ雰囲気を味わえることである。それと床や壁などをあまり気にしなくて済む。もちろん、映画の音声をマルチチャネルで聴くのも楽しみたい。テレビで放送される音楽番組や5.1チャネルで放送される番組をテレビに付いているスピーカーで聴いたのでは、と思ってしまう。
昨年の6月に我孫子市オーディオファンクラブ(AAFC)に入会した。例会ではいろんな音楽を聴かせていただいた。また、自作のスピーカーやアンプなどの音も聴くことができた。うらやましいのは、みなさんが、時間的にも、経済的にもずいぶん余裕をお持ちだということである。
もう一つは奥さんが、オーディオに関して、よく理解してくださっていることである。一般的に女性のオーディオファンは少ない。しかも、長いクラシックを音量を上げて聴くなどとは信じ難い。我家では、自分の部屋ではいつもCDやレコードを聴いているが、リビングルームにあるメインシステムでCDを聴くのは、女房が留守のときだけで、普段はめったに聴かない。また、自作のスピーカーで綺麗でピュアーな音を聴かされると、つい欲しくなる。
書斎のオーディオ装置は確かにオーディオ誌の云う、入門用だが、この前のAAFCのオークションで買ったスピーカースタンドのお陰で、音がよく響くようになり、トーンコントロールも高低音を強くする必要がない。その方が柔らかくて良い音が出る。今でも、「趣味はオーディオではなく、音楽鑑賞である」で良いと思っている。
私は「根戸エンジョイクラブ」に入って、太極拳とペタンクを始めた。ペタンクは日本ではニュースポーツの一種に属するスポーツである。現在、日本のペタンクは、ゲートボールがすたれて、その代わりになるような老人向けスポーツになっている。市のペタンク大会やペタンクの練習は以前のゲートボール場でやっている。2~3人でチームを組んで競技するので、4~6人が集まらないと試合はできない。私達は近くの小学校の校庭や公園で練習しているが、一旦、やりだすと、つい熱中してしまう。
「日本ペタンク協会」のウエブによると、ペタンクは1910年に南フランスの港町ラ・シオタで生まれた球技で、最初は助走をつけて投球していたが、車椅子の人でも競技ができるように、地面に直径50cm程の円を書いてのその中から投げるようになったという。発祥国フランスでは500万人以上がプレーを楽しんでいるそうだ。欧州は勿論、アジアでも旧フランス領であったベトナムやカンボジャ、ラオスでは盛んに行われている。
小さな公園のようなほんの少しのスペースでも気軽にプレーでき、ルールも簡単なことから誰でも容易に参加できる。実際に我々がプレーしているときに、知らない人から、「これは何と云うゲームですか?」と聞かれることがある。我々としては喜んでお応えしているし、興味を示す人には一緒にゲームをやるように勧めている。ゲームに参加するとすぐにルールも理解してもらえる。手っ取りばやく説明するため「氷の上でやるカーリングと同じです」と説明している。簡単なルールや用具を理解するには「日本ペタンク協会」のウエブ他、たくさんのサイトで説明されているので、ご覧いただきたい。
ここでは、簡単に説明しておく。通常、二人1チームで対戦するダブルスと三人1チームで行うトリプルスが普通である。両チームが6個の700グラム程度のボールを投げる。最初にビュットという小さなプラスチックの的(まと)を投げて、その的に、より近いところにボールが止まった方がその回での勝ちになる。6個ずつ投げて、相手の最も近いボールより近いボールが何個あるかで点数が決まる。こうして、点数を足していって、合計13点になった方がゲームの勝者となる。
ボールの投げ方は大きく二通りがある。一つはビュットに近くなるように投げるポワンテで、基本的な投げ方である。もう一つは敵の玉に当てて敵の玉をビュットから遠ざけるティールである。どんなにビュットの近くにボールを投げても、敵にティールでボールを当てられて吹っ飛ばされたら、おわりである。だから、ティールが出来ないと、大きな大会で良い成績は残せない。
ポワンテには3通りの投げ方がある。手元から転がすルーレットとボールを高く投げてビュットのすぐ近くに落とすポルテ、その中間のドゥミポルテがある。一般的な投げ方はドゥミポルテで、地面の状態に合わせて、立って投げたり、しゃがんで投げたりする。
ペタンクの面白いのは個人的な技術も重要だがチームワークも必要だし、さらに、ゲームの展開に伴って誰にどのように投げさせるか、どこでティールをやるか、敵の邪魔になるようにどこにボールを配置するかなどという戦略も重要になる。得意技がメンバーによって異なるので投げる順番も考えねばならない。
私が属している我孫子市ペタンククラブ連絡会では、年に二回のペタンク大会を開催している。いくつかのクラブから数チームが参加し、80名程度で腕を競うわけだが、対戦相手によって成績が左右されるので、最初の組合せの運も影響大である。昨年、我々のクラブの成績は優勝と最下位だった。
上掲ビデオで説明しているTさんから教わったことだが、ペタンクの技術を向上させるために必要な要点を下記に書いて置く。
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親指を使わず4本指を締めてボールをその上に乗せるように持つ。握ってはいけない。
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後ろに腕を振り、前方へ腕を振り子のように振ってボールをリリースする。投げようと思って、投げるのではない。遠くに投げるときは、精一杯腕を後方に振って、振った勢いで、ボールを遠くへ放る。
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ボールをリリースしたあと、手は肩の上程度まで上げる。万歳はしないようにする。
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後ろに腕を振ったとき、4本の指が真後ろに向くようにする。また、脇を締めて、腕は目標に向かって真っ直ぐに振る。横投げはしない。
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バックスピンを意識してボールを投げる必要はない。自然にバックスピンはかかる。ポルテで故意にバックスピンをかけることがあるが、高度な技である。
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身体を上下に動かさないようにしてボールを投げる。コンスタントに同じ所に投げるためである。
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ボールを投げるとき、身体の重心はやや後方に置く。遠く投げるときは、重心をさらに後方に置く。
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ボールを直接、敵のボールに当てる、すなわちティールの練習を心がける。最初は6m程度の距離から練習する。直接当たらなくても、ボールが同じようなところに集中して留まるように練習する。
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ボールを上に揚げて投げる、すなわちポルテの練習もする。個人的にはティールを正確に投げられるようになってからでも良いと思う。
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練習でも、上記のことを入念にチェックし、ボールを投げるときの姿勢やボールの持ち方、リリースの瞬間に気を付ける。
ペタンクは基本的にはチームでやるゲームである。誰でも参加できるし、奥の深いゲームで面白い。しかし、その前に個人個人の技術を向上させることを忘れないようにしなければならない。
そうなると、一人で何度も繰り返しボールを投げて練習するしかない。冬でも30分続けると汗もかく。練習をやりすぎると腱鞘炎にさえなる。決して、老人のスポーツではない。何事もそうなのだが、地味ではあるが、一人こつこつと練習を積み重ねることが大事である。
ルールは http://www.ne.jp/asahi/ikigai/yuyu/04yoka/method/01petanque/04rule/01rule.htm
のサイトが最もわかりやすいので、詳細を知りたい方は参照していただきたい。
添付した新聞記事で、東京の港区の中学校でのペタンク大会について触れているが、この記事の1ヵ月後の2月19日の大会には、我々、根戸エンジョイクラブのチームも参加した。3戦して1勝しかできなかった。その一勝もかろうじて勝った試合だった。リードはしていたものの、最後に、ほとんど逆転されそうなところを私の最後の一投のティールが決まり、勝利できた。いまだにあれは奇跡だと思っている。
このとき、Tさんのチームは準優勝をしている。Tさんのティールやポルテをビデオで見て、参考にして欲しい。
2006年ペタンク世界選手権大会の模様を下のビデオで見ていただきたい。ポルテやティールがふんだんに登場する。ルーレットやドゥミポルテは使っていない。アプローチもポルテで投げている。地面の影響を受けにくいからだ。